個か和、個と和(〜6/28)

into-the-sky2009-08-05


6月22日(月曜日)
 22.1℃ 天気は曇りベースで、時折雨も。もの凄く蒸し暑い。湿度が高い、というだけで、体調が悪いような気持ち。
「物事を色メガネで見る」とは、偏見という言葉の比喩として常套的に使われる。あまり良くない動作、という認識が一般的だ。けれど、偏見の道理には、主観と表裏一体として含まれるから、「しないほうが良い」と謳っても、排除はできないわけである。
 偏見とは、もっぱら見方が一般的でなく、変わっていること、とも言えるが、それが極端になると、見ることさえしなくなり、見える部分も減り、視野が狭くなる。また、時に、デフォルメもされ、良い部分だけ、悪い部分だけが、より強調されることもある。しかしこれも、誰もが経験していることであって、レアケースではない。所詮、すべてを均等に見ることなんぞ、到底できない。これが他の動物とは違う人間らしさでもある。
 重要なのは、自分には違って見えているかもしれない、見えてないものがあるはずだ、と想像すること。バランスをとるための客観とは、それによって達成されるだろう。


6月23日(火曜日)
 梅雨らしい天候の流行。気圧配置を見ても、やはり教科書的な梅雨型となっている。空気は湿っているけれど、蒸し暑くはない朝。
 各界で活躍している人を見たり、社会で成功した人の話を聞いたりすると、途轍もない強い存在感を受けずにはいられない。実際に会うと、体全体を揺さぶるような低周波の音が発振されているのではないか、と思うほどだ。
 そもそも、活躍や成功とは何かも様々だし、存在感に対する定義というものは、人それぞれだろうが、その1つには、自分にあった居場所を見つけた人、とすることができるだろう。居場所を見つけたら、そこに軽く漂うように鎮座するのではなく、何らの遠慮もなく、そこに根を張るように、頑丈に体を構えているように見える。他人がそれを見ると、きっと、誰にも動かすことはできないだろうし、みずから動くこともない、と感じるだろうが、その本人にとってみれば、周囲が思い感じるほど強い拘りもなく、実は、「すぐに動けるよ」みたいな柔軟性もあるのだろうと、推測する。
 そうでなければ、大勢の人に受け入れられることは、難しかったはずだからだ。身軽さも兼ね備えているから、艱難辛苦を乗り越えられた、ということだろう。強烈な存在感を出しながらも、既に次の居場所を探しているのかも知れない。


6月24日(水曜日)
 梅雨らしい天候変わらず。ただ、気象衛星の写真を見ると、例年のような太平洋高気圧の張り出しを、あまり感じない。
 とかく、急進力が重んじられ、それを動かす勢いが必要だった戦後では、団結という名の統率や行動が強いられた。同じ方向を見て、できるだけ大勢で組織して邁進することが大事だとされた。“個”よりは“和”だし、“静”よりは“動”に価値がおかれた。豊かな時代になって、それらの貪欲さはなくなった。
 最近では、スローライフという言葉に象徴されるように、緩やかさに価値がおかれるようになった。1つだった勢いは分散化し、大勢の必要条件は陰を潜め、各々が違う方向を見眺めるようになった。“和”よりも“個”の意識が強まった。
 その傾向が続くと、学校や友人同士などの小さな固まりでは、互いに集まり誰かと共にすることを望むようになる。“個”で構築された環境では、互いの都合で距離を保つことも簡単なので、小さな“和”は、返って作りやすい。かつての、忠誠を誓ったような“和”は、いつでも分化できるような“和”に変わった。
 何人かで集い楽しみながらも、その傍らでは、独りでいられることの憧れも、持っている、そんな時代なのだろう。



6月25日(木曜日)
 これを書いている、夜になると、朝、どんな天候だったか、思い出せない。それくらい、興味がない状況が続く天候。いつもより、少しだけ早く出勤。ほぼ、朝から晩まで、地下の人、の木曜日。
 ネットで調べ物をしていると、PCや関連機器、ソフトウエア上の設定などについての、Q&Aが掲載されているサイトに行き着く。まあ、だいたい、そこに書かれている答えのようなものくらいは既に知っていて、その先が知りたいと思うことが多い。その答えの中で、滑稽なのは、ほんのさわりの部分だけが書かれていて、後は「マニュアルを見てから質問してください」なんて書かれているものがあること。けれど、質問する人は、マニュアルくらいは見ているだろうし、見ても解らないから聞いているのだろう、と観察される。ダイエットに真剣に悩む人が医者に相談して、「ますはダイエットしたら診察します」と言われるようなものだ(喩えが下品だが)。もともとがボランティアみたいなものだろうから、そう書かれているのを見ても、微笑ましいと思うくらいではあるけれど。
 次に答えとして多いのが、「もう少し具体的に書いてくれないと解りません」というもの。しかしこれも、本当に答える気があるのだったら、幾通りか想定して列挙すれば良いだろうし、質問する文章の前後を良く読めば、見当つくだろう。まあ、いずれにしても、たいして詳しくない人が答えてあげている、という構図が、散見される。断っておくが、批判的な意見ではない。所詮、その程度の返答しかもらえない、と思っているほうが賢明だろうな、と思うくらいである。



6月26日(金曜日)
 特に変化のない天気。雨が降っていようと降っていなかろうと、気にならない曇り空。自宅近くの、例の芝生のゲレンデは、芝が生えているようにもゲレンデになっているようにも見えない。もうすっかり、厚みがある雑草に埋め尽くされている。そろそろ、刈り取られるだろう。
 金曜日は、定常的な仕事がない日だけれど、このところ、雑務や打合せなどで、結局、出勤する事を余儀なくされている。今日も、朝、いつものように家を出て、職場に立ち寄らず、品川にあるSONYの放送業務用機器を扱う、あるスペースへ。来年2月の大きなプロジェクトに関する打合せのため。ある業者の方が数名同行することになっていて、その担当者から集合時間や場所が載っているメールをいただいていたが、そのメールをMacに転送するのを忘れていた。時間と集合場所のだいたいの目算をつけて、品川駅に到着。20年ぶりくらいの品川駅東口を見渡していたら、同行する数名の方が待っていた。結果的にちょうど良い時間と場所だったようだ。僕の職場からは、代表で僕1人だけの参加。
 駅から15分ほど歩き、目的の建物に着いた。ある特別な場所に通され、名刺交換をして、早速、機材の説明を受けた。何度か目にしたり触ったことがあった機材だけれど、目の前にして詳細な説明を受けるのは、初めて。放送機器にそれほど詳しいわけでもない僕に、非常に丁寧に説明をしてくれた。   少々、申し訳ない感じである。オペレートの詳細は、まだ今の時点ではたいして関心がない。ただ、僕がやりたいことを宣言して、それが可能かどうか、それにどの程度手間がかかるのか、だけを、入念に質問した。あらかじめ、持っていたイメージにかなり近い使い方ができるようで、一安心。2時間ほどいろいろと説明を聞いたり相談をしたりして、打合せをしながら昼食。
 昼過ぎの1時頃に、そのある建物を出て、ある業者の方3名と僕で、駅の近くの喫茶店で、再度の打合せ。これもやはり2時間ほど。夕方4時前に職場へ戻った。メールチェックをして、今回の打合せ概要の書類を作り、6時から、また違う業者の方と打合せ。1時間ほどで終了。雑務をこなして、8時過ぎに退勤。第三者が客観的に僕を見ると、きっと、少しは仕事をしている人に見えるかもしれない、と思う、今日この頃。




6月27日(土曜日)
 雨は降らず、空気もそれほど湿っていない。これといって、特に印象がない天候。出勤の土曜日。
 外部の仕事なので、朝早く、職場に寄ってスタンバイをして、車で20分くらいの撮影地に移動。実際に放送されるのは全体のごく一部分だけだが、10時から20時くらいまでは、ずっとその場所にいなければならない。このような、もの凄い密度の薄い仕事と、極端に密度の濃い仕事が同居しているのが、この業界の特徴だろうか。正しく言えば、同じ1つの仕事でも、人によって密度が違う、ということ。現場にMacBook Proを持っていき、空き時間に他の仕事を進めようと思ったが、結局、いろいろと考えて、それはしないことに。僕だったら、絶対にない発想だが、さすがにこれだけ仕事が立て込んでいると、少々の可能性は追求したくなるわけである。放送日は、今年の9月頃の予定、みたいだ。
 終了して職場へ戻り、撤収しメールチェックをして退勤。関わったスタッフと、少々の打ち上げ。いつもの焼き鳥屋ではない。11時過ぎに帰宅。
自宅のパキラ(観葉植物です)は、今シーズン3度目の、落葉。何だか、もの凄く生きている、という感じ。健気で可愛らしい。



6月28日(日曜日)
湿度は高いし、気温も高いし、不快な朝。梅雨らしい天候が続いている。休日の出勤。
MacBook Proを買って、iMacなどと無線ネットワーク化して最も感じたことは、個々の機器同士を互いに接続しリンクすることができる、つまり繋がることの利便性である。ネットが一挙に普及したり、あるいは、PC自体が普及したのも、物同士が、見かけ上繋がることへの期待と利便性に起因するところが大きいだろう。
コンテンツ単体で考えると、従来の雑誌や新聞などでも、それを得ることはできた。しかし、物理的に各々は繋がっていないので、関わる何かを求めようとすれば、また一から同じことを始める必要があった。それに加え、動ける距離もできることにも限界があったので、それぞれは乖離したままであることが多かった。情報は個々に存在しても、広がりを持たないから、実際の情報量のわりに、それに近づいたりそれを享受したりすることが、ほとんどできなかったわけである。
PCが普及し、それにいわゆるネットが融合すると、個々に散在していた情報は、互いにリンクする。すると、個々は全体としての大きさを持ち、途端に目前に広がるように、見えだした。見えやすく、拾いやすくなったことで、情報量がもの凄く多くなった、つまりは、情報化社会、ITだなんて言われるようになった。
けれどもしかし、それは見かけ上の体裁が変わり、大きさを感じやすくなった、ということであって、情報の量が、大きく増えたわけでない。高速化されたツールによって、短時間で得られるようになっても、それ自身の質が向上したわけでもない。真相を知りやすくなった、ほとんどすべてが見られるようになった、なんて、所詮、妄想であって、一時の誤解でしかない。
夕食後は、長く起きていられない感じだったので、簡単に掃除をして、雑誌を眺めて就寝。

空気感を知る(〜6/21)

into-the-sky2009-08-04


6月15日(月曜日)
 今日も、白濁の朝。透明な空気の地に移動したい、と強く思う。これに関しては、他の人達より、かなり気にしい、の傾向があると、何となく分析。19.2℃。真剣に歩くと、少し汗ばむ気温。湿気も固まり、夕方は、雨が降った。
 出勤して、そして、帰宅(中略)。
 家のMacintoshが2台になることで、ネットの回線をどうするか、検討中。スイッチハブを入れても良いが、ワイヤレス機能も兼ねるAirMacベースステーションにした方が、一挙両得のような気もする。母屋のスペースまで電波が届くから、両親へのサービスとしても宜しい。そういえば、iPhoneWi-Fiが使えるし。そんなことを考えながら、費用も含めて、いろいろと調べている。まあ、お金が有り余る程あれば、考える必要もないのだけれど。

 ここからは一般論だが、ある箱の大きさが決められていて、その中にいろいろと盛り込む必要があれば、入れるものの優先順位をつけるしかない。目的を明確化して、それに向かった手段を考える。手段が決まったら、それに見合うものをリストアップする。リストアップしたものの中から、何をどのような順番で入れていくかを決める。そのようにして、比較優位を判断せざるしかない。手段もそれに合ったものも、数えきれない程、存在するわけだが、所詮、容積に絶対的に依存しているわけであって、そうなると、打つ手は、それほどない、ということ。考えられ、優先順位をつけられたものは、他に対しても合議制があって説得力もある。それが、いわば、必然的な環境であり、周囲に受け入れられる事象になるのだ。要するに、優先順位とは、他に対する影響力とほぼ同意であるし、また、そうでなければならないわけである。
「順位を決めるには、物事に対する価値観が伴う」このような主張も、確かに大きく間違ってはいない考え方だが、それもやはり、周囲に対する説得力によって判断されることである。価値観とは、他との違いに対して境界を持たせた結果によって形作られる、観念でしかないからだ。


 6月16日(火曜日)
17.8℃の朝。こうして、毎日のように気温を書き記しているが、書いているほど、気にはしていない。むしろ、気にならなく印象に残らないから、あえて、こうして記録のために書いている、というわけである。雷雨の予想があったけれど、日中はなんとか持ちこたえた。
「健康ブーム」と言われ始めて久しい。恐らく、「スポーツクラブ」なるものが、世の中に急速に広まったあたりから、ずっと続いている傾向なのだろうと観察される。その後には、ビタミン剤などの薬を服用して健康を維持する傾向も加わり、最近では、健康食ブームとなっているようだ。僕は、健康のため体のために投資してそれを得ようとする、という貪欲な姿勢を持ったことがないので、そのような人を見ると、感心する。毎週のように何キロメートルも歩いたり、数ヶ月に一度、10キロメートル以上歩いたりすることもあったけれど、それは、ダイエットをしたい、とか、一層健康でいたい、と思って始めたことではない。結果的に、10キログラム以上も痩せたけれど、あくまでも、気がついたら痩せていた、という程度。どうしてそのようなことをしていたか、というと、それは、かつての読書や今の映画鑑賞や、ずっと続いている日記とほぼ同じ動機であって、つまりは、特にこれといった明確な目的があるわけでもない。趣味でも癖でもないし。
 結果的に、運動をすることで長く生きる人もいるだろうし、それぞれの体質もあるので一概には言えないけれど、では、どうしてそれらが必要となるまでの事態に陥ったのか、と考えると、結果的には、何か、余計なことを1つしているような気がしてならない。不健康になることをする、そして、健康になる努力をする、というふうに。しかしこれは、そのようなことをしている人に向けた卑下でも哀れみでもない。日頃から配慮すべきた、という、つまり、自制の感、である。
 雷雨の夜。激しいわけでも長く続くわけでもなく、断続的に雨が強くなり、雷も鳴っている。結局、無用に濡らすことがないように、手ぶらで10時過ぎに帰宅。MacBook Proが到着していた。



6月17日(水曜日)
 久しぶりに、涼しい朝。16.9℃。陽射しもなく相対的に涼しい朝は、一段と静かに感じる。小鳥の声と素早い動きだけが、目立つ。
 昨夜届いたMacBook Proは、今朝もまだ、梱包すら解いていない。今夜もたぶん、できないだろう。AirMacベースステーションも、依然として検討中。しかし、今までの例だと、検討しているということは、購入することと同義である。数日中にはネットで注文するだろう。その他にも、マウスをどうしようか、スピーカーを繋げるかどうかなど、いろいろと。
 出勤して、昨日とほぼ同じ仕事。ただ、動作はほぼ同じだけれど、内容はまったく違うといってよい。まあ、そこに、一抹の面白さがある、というような気がする。何度か書いていることだが、仕事が面白い、とか、趣味が仕事、という状況は、不健全であって、面白くなくなると熱心さが減るのだろうし、趣味でなくなると、しようとする気さえ起こらなくなるだろう。ちょっと面白いしちょっと熱心くらいが、適当だろうな、というのが個人的な意見。
 夜10時前に帰宅。ブルーレイHDDの整理をしたり、簡単な掃除をしたり。やはり、MacBookProは、ダンボールの中。



6月18日(木曜日)
 天気も気温も、どちらともいえないイメージ。ただ、日中暑くなることを予感すると、それだけでやや蒸し暑く感じる。19.5℃の朝。
 最近、気分が悪い日が多いような気がする。機嫌が悪いでも、気持ちが悪いでもない。どちらかというと、前者に近いだろうか。あ、そうか、ブラインドモードなのだな、と今、認識。いつでもどこでも、考え事ばかり。しかし、いずれも、プライベートではなくて、仕事に関すること。
 いつもより少しだけ早く起きて、MacBookProを箱から出した。箱のデザインもMacならでは。Macの製品は、どれも箱を捨てるのが惜しくなる。現に、僕は、内包のケース以外は、すべて残している。それだけでディスプレイしておいても良いかな、と思うくらい。Windows系のメーカーも、せめて、そういう表面的な部分だけでも真似れば良いのでは。
 結局、ネットの回線の問題を解決していないので、セットアップをせず箱から出しただけ。今夜には、LANケーブルを用意する予定。
 平日のうち、地上で仕事をしている時間は、ほとんどない。金曜日以外は、出勤してから、夕方過ぎまで、ずっと地下にいる。朝は涼しいし、帰宅する夜9時頃になると、外もそれなりに涼しくなっているので、季節も強い日差しも感じない。今のところ、涼しい夏、という印象。



6月19日(金曜日)
 19.3℃。陽射しがあったけれど、雲の切れ間からで、消極的。この頃にしては、気持ちの良い天候。
 今朝も少しだけ早起きして、MacBookProのセットアップ。セットアップといっても、少々の設定をするくらいで、20分くらい。ISPのIDとPassを入力するだけで、ネットもメールもすぐに使えるようになる。複雑な設定は、一切ない。今のWindowsがどうなのかは、知らない。アマゾンで、懸案のAirMac Extremeを注文。今夜には届くだろう。
 朝から別の事務所で会議があるので、いつもより早く家を出た。僕の本拠地よりたいして距離が離れていないけれど、朝の周囲の出勤風景は随分と違う。今朝のこちらの方が、それらしい雰囲気。
 今年度から新たに加わった会議体。大半のメンバーは昨年度からの続きになっていて、新規の僕は、初回の今日は、様子見をした。会議の方向性を掴む、というか、空気感を知る、みたいな。少しずつ、発言を増していくだろう、というのが客観的な予測だが、まあ、そもそも、それほど、多言にはならないだろう。2時間弱で会議は終了。朝よりもさらに空気が乾燥していたので、最寄りの大きな駅まで、15分くらいを歩いた。風も少しあって、気持ちが良かった。途中、駅前の大きな家電量販店で、専門書を購入。
 夕方からは、いつもの職場で別件の会議。例の来年2月のプロジェクトについて。定価で3500万円くらいの機材について、こちらからの希望金額の提示。具体的には書けないけれど、かなり値引きをしてもらう意向。会議の後は、多少の雑務をこなして、帰宅。



6月20日(土曜日)
 晴れもせず、雨も降らず、空気は乾燥しているでも湿っているでもない。休みの土曜日。
 朝食前に、iPhoneのバージョンアップ。OS3.0にした。話題になっていたカットペーストも、確かに使えた。考えてみると、今までなぜその機能がなかったのかと、不思議には感じるわけだが、コピーができなくて困ったことも、一度もない。他にも、ボイスメモや検索機能も増えたけれど、僕はほとんど使わないだろう。iPhoneの新機種は買わない。すぐに新しいものに機種変更していた僕にとっては、珍しい傾向。
 朝食後は、AirMac Extremeのセットアップ。梱包を解いてから、無線LAN機能が動作するまで、15分程度。iMacとMacBookProの設定も完了して、およそ20分で使えるようになった。従来の有線と比較しての速度の低下は、特に感じられない。次に、iMacsafariをバージョンアップ。これでかなりブラウジングが速くなった。無線の電波は、両親の家まで比較的高強度で届いているようなので、明日は、両親の家のWindowsPCを、無線で繋げる設定をする予定。
 映画を観て、夕方は美容室へ。担当の美容師の方と、また今日も、随分といろいろな話をした。仕事関係や家族以外での会話というものがほとんどない人間なので、新鮮。質問された内容に僕が答えるだけ、であることが、圧倒的多数。相手が女性ということもあって、緊張恐縮気味である。
夕食後は、刑事コロンボを視聴。Mac2台は、スリープ状態のまま。最近は、ベッドに入ってから眠りにつくまでの時間が短い。



6月21日(日曜日)
 日中は、雨が降りながらも比較的涼しい体感だったけれど、夕方は、蒸し暑くなった。暖かい南よりの風が入ってきたのだろう。
 朝食後は、両親の家にあるWindowsを、僕の家のAirMac Extremeに接続する作業。USBのワイヤレス子機を使っての設定。それに同包されていたCDからインストールしたソフトウエアで、短時間で繋ぐことができた。けれど、電源を投入したり再起動する度に、その専用ソフトウエアを立ち上げ、WPAPASSを入力しないと繋がらない。調べたり考えたりしているうちに、OSのバージョンアップが必要なのだろう、という結論に至り、まずは、その作業から。
 6年前に購入してから、一度もバージョンアップをしていなかったので、この作業だけで、2時間程、かかった。それまでのISDN回線でのダウンロードだったら、まる一日はかかっただろう。その後、OSの中のあるファイルの記述を書き換えて設定をしなおしたら、起動後に自動的に繋がるようになった。両親に動作を確認してもらい、作業は終了。朝方に降っていた強い雨は、弱まっている。
 午後は映画を1本観た。簡単な掃除をして、夕方は図書館へ。姉の家族との会食の予定があったので、短時間で本を選び、帰宅。会食後も映画を観て、就寝。

ホタルとハクビシン(〜6/14)

into-the-sky2009-08-02


6月8日(月曜日)
 朝の気温、17.4℃。昨日より少し涼しいが、空気の透明度は一挙に低くなった。芝生のゲレンデの雑草たちは、急速に高さを増している。周囲の木々の緑より、新鮮で鮮やかで健気。たいてい、こういうふうに日記に書くと、1週間程度で刈られる。現況を気にしだすとその事態が変わる、というのは、電車の窓の外を気にしだして見ようとすると、逆方向を進む電車に遮られて見えなくなる、ということと同じメカニズムだろう。
 出勤してから、ほぼ隙間のない仕事が夜まで。このおよそ11時間の中で、自分のためだけに使える時間は、僅か30分くらい。特に不満はない。けれど、消化しなければならない打合せの予定がなかか入れられない。これは少し困る。夜10時前に帰宅。
 朝のNHKニュースで、頻繁に「リサイクル術」「節約術」というのを目にする。民放ではきっと、夕方の番組で取り上げているのだろう。それを眺め見する度に、非常に微笑ましい気持ちになる。それらをすることに、何か無理しているように散見されるし、そうすることに、エネルギーを消費しているように観察されるからだ。本末転倒、とまでは思わないが、それに近い不思議さというのはあるでは。
 そもそも、身の回りの一見されるリサイクルや節約は、昔に比べればかなり一般化している。そうすることが、ごく当たり前になっているものばかりである。だから、既に、テレビで暇つぶし的に紹介するような効果的な手段は、出尽くしているという感がある。だから、少し我慢したり減らしたりすれば、ずっとリサイクルだし節約になるようなものに、時間と手間をかけている、そういう「一見リサイクル」「一見節約術」が格好のネタとして紹介されることになるわけである。
 特に、そのような工夫が間違っている、と言いたいわけではない。けれど、そこまで手間をかけてやる、それだけの真剣な姿勢があるのだったら、最初から買わなければ良いし、使わなければ良い、と思う。


6月9日(火曜日)
 昨日より、少し暖かい朝。けれど、風はあるし空気は乾燥していて気持ちが良い。それまでは、比較的遠くに見えた雑草的植物たちも、ここ数日で、だいぶ遊歩道に近づいてきた。芝生のゲレンデを作るときの土が違ったのか芝の種類が違ったのかは解らないが、雑草の生育分布には、かなりのムラがあって、その境界も直線的な部分がある。あまり雑草が生育していない域、ピンクの花の域、黄色い花の域、クローバーの域・・・というふうに。毎年、定点的に撮影しておくと、面白いだろう。
 先日、職場に居る若い人と話をしていたら、かつての月面着陸の話題になった。若い人は「月面着陸は虚偽だ」と言う。僕は正直なところ、それについては感心がない、というか、どちらでも良いと思っている。当時の虚偽が、今に及ぼす影響はほとんどない、と考えられるからだ。ただ、「合理性を考えれば、嘘か真かは明白なのでは」とは言っておいた。嘘の情報を流すエネルギー、事実を伏せる手間を推測すれば、「行ったことにする」必然性は乏しいだろう。どちらかといえば、実際には月面着陸をしたにも関わらず、失敗に終わったと嘘を公表することの方が、明らかに簡単だし、利点が多いように思う。
 決して、そう言った本人を卑下するものではない。むしろ、蔓延している一般化された情報を、そのまま鵜呑みにしないということの方が自然だと思う。十把一絡的に、皆が本当だと信じて、皆が嘘だと言い張るようなかつての時代に比べると、明らかに健全だし、正しい姿なのである。
 仕事を終えた夜8時過ぎに職場を出て、ある上司と2人でいつもの焼き鳥屋へ。1時間くらいして、珍しく、職場の若い人2名も合流。例外なく、いろいろと有意義な話をした。深夜3時頃に帰宅。MacBook Proを買うかどうか、依然として検討中。


6月10日(水曜日)
 雲の量は同じに見えるが、明らかに湿度が高い。ほぼ無風の20.3℃。真夏の涼しい朝、といった感じ。
 今日も、朝食前の時間や、職場の僅かな休憩時間を利用して、新しいMacintoshに関していろいろと。新しく購入するMacを最も利用したり、新製品のスペックを享受したりするには、iMacを更新するのが宜しいのではないか、と考え、Appleストアで見積もりを作って検討。しかし、今のiMacが壊れているわけでもないし、だいいち、自宅にiMacを2台並べて使うというのも、ちょっと想像がつかない。そんな思考の最中、あっさりとMacBook Proのラインアップが一新され、同時にスペックアップし値下げされた。まさに「嬉しい悲鳴」というか、「ひょうたんから駒」である。候補に上がっていた仕様の機種は、およそ4万円程度安くなったこともあって、結局、MacBook Proの購入を決定。早速、Appleストアで注文した。ハードウエアを若干カスタマイズして、あるソフトウエアをプリインストールしてもらう特別な仕様にした。これによって、海外からの取り寄せになるらしく、配送予定日が今月の26日となっていた。大抵、最大の日数が提示されるから、実際には、もう少し早く届くことになるだろう。
 仕事を終えた夜8時過ぎ、今回は、昨夜の上司に加えてもう1人の上司も加わり、3名で再び焼き鳥屋へ。仕事の内容でも、卑猥な内容でもない、ある種の話で盛り上がった。例によって、愚痴も陰口もない、非常に健全な会合だった。6時間くらい居て、深夜の3時前に帰宅。


6月11日(木曜日)
 朝から、真剣な雨。しっかりとした雨音、しっかりとした湿り気。気温は17℃と少し。 そういえば、昨日か今日、梅雨入りしたと思われる、という発表があったらしい。こういう一種の儀式のようなものには、年々、感心がなくなる傾向にある。
 儀式といえば、今日は、職場全体による、屋外でのあるイベントの日だったが、雨天中止になった。定常的な仕事も一切入っていなかったので、そのまま出勤しないことに。中止の内容がどうであれ、土壇場のオールキャンセルは嬉しい、と素直に書いておこう。
 ということで、朝から映画鑑賞。まずは午前中に2本。雨がすっかりあがった午後は、いつもの休日のコース。映画はさらに1本見て、親の買い物に付き合い出た。夕食後も映画鑑賞。今日の一日で4本の映画を消化。
 先日、久しぶりにログインした、あるブログサイトのデザインが、オレンジから淡いブルーに変わっていた。随分と思い切った行動にでたものだな、と思ったしだい。そのデザインが、人気を博する要因になったと思っているからだ。しかし、どこにもニューリリースの情報がないから、一時的なものなのかもしれない。実際には、こうして書いているほど、気にしていないけれど。
 しばらくの間は、短い日記の日が多くなるだろう。ちなみに、毎日同じ字数を書く、という拘りのようなものは、4月の終わりに既にやめている。字数が多い日や少ない日、あるいは、そのような期間の存在が自然だからだ。実行してこなかったが、ブログを始めた4年3ヶ月前から変わらぬ考え方ではある。


6月12日(金曜日)
 晴れて気持ちが良い。湿度もやや低め。今年のこの時期は、このような天気の出現率が、少し高いような気がする。あまり梅雨らしくない天候が、断続的に出現している。下旬には、元をとるように、雨天が続くのだろうか。
 幼少の頃から、どうして運動会なんてやるのだろう、と思っていた。今は関心がなくなっているが、基本的には同じ考え。小学校も低学年だと、どちらかといえば個人プレーの要素が強かったが、学年が上がると、やがて何人かで、あるいは、クラス全員や学年全員で何かをするようになると、一段とその思いは強くなっていったものだ、と記憶している。とにかく「やらされている」という意識ばかりが強まり、自分の何かのため、とは到底考えられなかったからだ。運動会が近づいてくると、他のクラスとの合同体育となって、グラウンドや体育館で、先生たちのかなり積極的な指導となる。こうなると、もう、壊滅的な気持ちになった。5年生になると、上半身裸で裸足になって、組体操なんてやるわけだから、まさしく、かつての軍隊みたいだと思った。そういうものを見ていると、運動会の意義とは、きっと、「一致団結の精神」なのだろうな、と勝手に想像していたわけである。
 今の運動会とは、まさに保護者に見せるため、という要素がかなり先行している。それぞれの競技や演目で、子供が居る場所が教えられる。見たり撮影したりするためだ。壇上で笛を吹き指示を出すだけ、というかつての光景から、方々に職員が付き添い、事故を防いだりフォローをしたりしている、そういう運動会に変わっている。いわゆる、今風な光景だし、現代としては、このほうが自然な姿である。ただ、一方では、なぜここまでして運動会をするのか、という子供達も多いだろう。またこれも、現代ならでは、といえる。
 今は、まだ残っている、誰かが下になりその上に誰かが乗る、という競技も、風前の灯火のように感じる。不平等だ、みたいなクレームを防ぐためた。しかしこれも、善し悪しではなく、ごく必然的なことだろう。今後もさらに、危険な競技や不平等な演目はなくなり、ただ走るだけただ踊るだけ、というものばかりになる。
 いずれにしても、実施することでのリスクや苦労を考えると、学校の運動会は、そう遠くない将来には、なくなるだろう。見に来る保護者が沢山居る小学校以外は。そのうち、保護者による撮影のために、同じ演目を2回やる、なんていう学校も出てくるかもしれない。


6月13日(土曜日)
 雷雨の予報が出ていたけれど、結局、一日中、穏やかな天候。もちろん、雨も降らず。
 昨夜は、若い人達と新宿駅近くで会合。これは、まったくの予定外。その人達の話を聞いていて、以前と比較して考え方が随分と大人になった、とまでは思わないけれど、かつてとは、少し違う発想になっているとは感じる。誰かに教えられたり指示されたりするよりかは、自らの経験やその蓄積によって、自然に変えていったり変わっていったりすることの方が、圧倒的に多い。先に生きる人は、そのあたりの想像力を持つ必要がある。無駄で過度なアドバイスをしないために、である。
 出勤の土曜日。定常的な仕事も、個人的な雑務のほとんどないけれど、1時間程の定例の会議があるため。スタッフそれぞれのスケジュールの影響とはいえ、このために出勤するとは、いかがなものか、と思うが、まあ仕様がないだろう。恐らく、全員が同じことを考えている筈。なかなか排除できない、どうにもならないことがある社会、である。
 このところ、夜9時前に帰宅することが、ほとんどなくなっているので、会議を終えた午後は、少しだけ雑務をこなして、早々に帰宅。久しぶりに駅から家までの間を、歩いた。ただ、歩くというより、登るというイメージのほうが近い。大げさに書くと、登る一大決心が必要になる、ということ。家に着いて、映画を観て、簡単な掃除をした。
 夜は、両親と3人で、家から歩いて15分程のホタル鑑賞スポットへ。僕が行くのは2年ぶり。昨年から、大々的に鑑賞を宣伝したり、それに併せたイベントを開催したりしているから、沢山の人が来ているのだろうな、と思いながら、8時頃に家を出た。そのスポットに近づくと、往来する人の数が次第に増えていった。誘導員も立ち、順路を示す看板も立てられていた。やはり予想通り、かなり本格的なホタル鑑賞になっている様子。ホタルの前に、まず、近くの電線の上を歩いている、ハクビシンが見えた。噂には聞いていたか、実際に見たのはこれが初めて。
 鑑賞スポットの街灯は、ボランティアの方々によって、黒い布が被せられていて、一段と暗い。近くの人の顔も見られないくらいの暗さに、夏の夜祭り程の、沢山の人や列ができている。なんとも不思議な光景。もちろん、ホタルの光も沢山見られたけれど、その傍らの人の多さの、奇妙な印象が勝る、という感じ。来年は、少なくとも、この時期には、見に来ないだろう。人の多さに対して、その起因の1人になりたくないし・・・。10時前に帰宅。


6月14日(日曜日)
 出勤の日曜日。いつもより少し早く起きて、刑事コロンボを視聴。7時過ぎに家を出た。普通のペースで歩いている分には、気にならない天候。白濁した空気が、鬱陶しい。日曜日の営業的仕事を終えて、夕方6時前に帰宅。年間で、もっとも夕方というタイトルが不相応な時期。さらに、曇ったり雨が降ったりしていると、オレンジの光には見えないから、どちらかと言うと、少し暗い日中である。
 Appleのwebサイトで、MacBook Proの注文状況を見たら、昨日、荷物受付がなされ、今日、海外発送された。やなり当初の予想通り、注文時に提示された日付よりも、かなり早く到着することになりそうだ。自宅に配送されるのは、16日の予定となっていた。10日間マキ。
 今回は、3つのカスタマイズ項目があったけれど、そのためにオリジナル製品のフタを開けて、中の部品を交換したり、アプリケーションをインストールしたり、ということは、この日数ではせず、あらかじめ、カスタマイズのいくつかのパターンを想定して、それぞれをいくつか在庫しているのだろう。極めてレアケースだったり、在庫をしていないときには半月ほど時間を必要とするが、そうでなければ、倉庫にそのパターンの製品を探しに、あるいは取りに行くくらいの作業で発送される、というシステムなのだろうなと推測。
 夕食後は、体調があまり良くなく、早めにベッドへ。しかし、雑誌をずっと眺めていて、結局寝たのは、いつもと同じ時間。日記は溜まる一方で、なかなか投稿できない。実際には、なかなかする気にならない、が真。

Mac憧憬の日々(〜6/7)

into-the-sky2009-07-21



6月1日(月曜日)
 16.6℃の朝。薄い雲に覆われているけれど、空気の透明度もやや高くで、気持ちが良い。職場の周辺では、昼過ぎに一度にわか雨が降った。
 最近、突然、MacBook Proが欲しくなって、いろいろと調べものをしている。購入してから2年と半年が経つ今のiMacを、あと2年は使おうと決めているが、新しいものへとカットアウトのように交換するのではなく、ある程度は新しい機種とオーバーラップさせていこう、と考えを変えたからだ。OSの動作自体は、依然として購入時とほとんど変わらないレスポンスで快適だけれど、傍らのアプリケーションは、徐々にメモリーを多用する仕様へと変わる傾向にあるし、回転機構を持つHDDは、確実に寿命に近づいている。メモリーが不足すると、その分HDDも多用されることになるので、やはり、経年的な劣化は避けられない。まあ、そうして、以前のWindowsのHDDは破壊されたわけである。使用頻度にもよるが、使い始めてから概ね3年を過ぎると、寿命までの余生、というイメージを持っている。寿命の際まで使うよりかは、その手前で、仕様頻度を落とした方が、いろいろ無難で平和な気がする。
 そうなると、同じようなデザインのものを二つ使うというよりかは、目的と用途が多少違うものにしておいたほうが、それぞれの使用頻度が高まって、無駄にならないと思うからだ。これはもちろん、新しいものを買うための、みずからの理由付けではある。まあ、こうすれば、今のiMacの交換時期も、さらに1年以上は先延ばしにできるだろう、とさらに、正当化しておこう。買うとしたら、7月の終わり頃か、12月の終わり頃になるか。2台のMacintoshをどう使い分けていくが、がポイント。
 仕事を終えて、夜10時頃に帰宅。この帰宅時間は、最近3週間くらいのデフォルト。外からは、自宅近くの都道を道路清掃車が進む音が聞こえる。沢山の葉の奥に、僅かに黄色いボディが見えるくらい。一見、森の中を行く清掃車、である。いったい、何を掃除しているのか。いや、ただの比喩ではあるけれど・・・。



6月2日(火曜日)
 朝の気温は、13.7℃。ここ1週間では、比較的冷え込んだ。昨日、自宅の周辺では強い雷雨があったようだ。夜に入って、冷たい空気に完全に覆われたのだろう。
 駅前建設中のある商業施設には、外壁が取り付けられ始めた。今年の終わりには完成するようだ。その中には、ある有名なスポーツクラブがキーテナントとして入る。その他に、スポーツ用品店や飲食店もオープンするらしい。その隣には、小規模なホールが入る文化センター、奥には、高層マンションも建設中。駅からやや離れた所には、別のマンションとPCショップが建設中。駅の反対側にもマンションが建設中。着実に空き地は減り、そして街道沿いにある旧来からの民家も減りつつある。依然として成長中のシムシティみたい。何度か書いているけれど、引っ越してきた時は、駅前の広大な空き地に、コンビニと小さな銀行の建築物があるだけだった。その横には、沢山の土筆が伸び、キジも飛来していた。駅前の一等地は、雪が降れば、辺り一面の銀世界だった。 そんな頃から、まだ10年と経っていない。これらの工事が開始されて、これで、駅前からは、完全に空き地が無くなった。
 火曜日は、今週も晴天。このところ、週の後半に天気がぐずつく傾向。午前中の1時間弱は、屋上で日光浴。もちろん、結果的にそうなるのであって、あくまでも仕事中の話。
 結果的、といえば、たいした理由もなく、結果的にこの一ヶ月間ほとんど中断されている日記の投稿も、来週の初めには再開されるだろう。中断の理由がなければ、再開の理由もない。このところ続いたブラインドモードとも、あまり関係ない。仕事の量も関係ないし、病気をしていたわけでもない。
 今夜も、10時過ぎに帰宅。さすがにこの時間だと、映画を見る気にはなれない。テレビの電源さえ入れない。iTunesのラジオで音楽を聴きながら、一日遅れの日記を書いたり、本を読んだり。夕食代わりに、キリンの「氷結」500mlを飲みながら・・・なんて、たまに具体的な固有名詞を。



6月3日(水曜日)
 弱い南よりの風、18.4℃の朝。
 家を出て少し、いつもの芝生のゲレンデ。その途中は、遊歩道よりも2メートル以上の高さがある、なだらかな上りの傾斜地になっているので、普通だと目線よりはかなり下にあり、あるいは木の陰に隠れて見えないようなものが、よく観察できる。芝生のゲレンデといっても、一面に芝生が見られるのは、冬季の少々の期間以外は、除草作業の直後くらいなもので、だいたいは野草のゲレンデになっている。大胆に、専用の機械で一気に刈られているが、毎年見える範囲だけでも20種類以上の花が見られるし、毎年、必ず決まった位置に、彼岸花も咲く。除草されることによって見られる花たちであることは間違いないだろう。一挙に何度かリセットされないと、生息に強い植物だけが、繁栄することになる。
 ここへきて、たて続けにネットでいろいろと注文をしている。着々と届きつつあるけれど、どれもダンボールの梱包から開封していない。外玄関の中にある階段に放置されたままの状態。
 これくらいの頻度で、ネットで買い物をしていると、ダンボールの処理は切実な問題。たとえば、鉛筆ほどのアロマオイル1本が、電話帳2冊分くらいの段ポールに梱包されて届くくらいだから、空箱ばかりがたくさん溜っていくのだ。まったく仕方のないことではある。けれど、処分は億劫になるし、いつでも捨てられるわけでもないので、こうなると、処分できる日まで溜めらるダンボールの量で、注文する時期や注文するかどうかが、束縛される。このダンボールや梱包の問題が改善されれば、もっと、いろいろな品物を注文するかもしれない。
 仕事の後は、突然、ある上司と焼き鳥屋に行くことに。「今夜こそは電車のある時間に・・・」という大方の予想は、今夜も例外なく覆り、深夜2時前に帰宅。



6月4日(木曜日)
 昨日とほぼ同じ気温。ただ、風向きは少し違うみたいだ。朝、家を出ると、近くの森の中のいつもと同じ所でウグイスが歌っている。これがここ3週間くらい、ずっと続いている。家の前の緑も、周囲の森も、横にも上にも、その勢力を広げている。
 先日、ある上司から「君は全体を見ている」「他の部署も助かっている」というふうに言われた。その上司は、若干の褒めとして発言したらしかったが、僕はそういう認識ができず、「ああ、そうなんですか」とだけ、返した。特に自分だけ違ったことをしているつもりはないからだ。もしかして、何年も変わらぬ職場に籍をおいて、全体を見ないで、そういう観察眼を持たないで仕事をしているスタッフがいるのだろうか。もしそうであるならば、それはそれで凄いことだと思う。それで仕事に支障をきたしていないのであれば、天才、かもしれない。
 ここからは一般論だけれど、1つの職場において、自分の周囲の環境や直接関わる道理は、いわば日頃のルーチンワークの中に完全に取り込まれている。意欲的な観察眼を持たなくとも、進められるべき仕事である。ただ、経年、仕事の範囲が方々へ広がると、より強い観察眼が必要になる。けれど、直接関わる業務以外の部分に足を踏み入れる瞬間に、その対象に関わるものだけでなく、すべてを見渡すことができるような数段上の高い所からの観察眼が必要になるし、常にそれを意識したり想像しながら仕事を進める必要が生じる。今までの身近な「一点」から「他の一点」を見るということは、「線や面」ではなく、奥行きと広がり、つまり「3次元」的にイメージする能力が求められる。その結果、全体が見えてくるし、本意であるかないかに関わらず、そうなるのが必然だろうと考えられる。さらにありていにいえば、それが自身が仕事である、ということ。
 夜は、ある作品の編集作業。この製作に関しても、僕はディレクターみたいな仕事。最初の駆け出しから、軌道に乗ったところで、今日の作業は終わり。続きは明日。10時過ぎに職場を出て、帰路へ。


6月5日(金曜日)
 昨日の朝より、僅かに暖かい朝。18.9℃。週間予報を見ると、ここ数日で三日先の予報が二転三転している。雨が曇りになり、再び雨になりそして晴れ、みたいな。梅雨前線の振動の具合に、やや大きく左右されているようだ。僕の中では、先週から梅雨の季節に入っていると思っているので、特に、どうも思わない。
 帰宅がかなり遅くなるという予想をしていたので、昼頃出勤。昨日の編集作業の続きのため。メールのリプライをしたり、各種雑務をこなして、編集室入り。途中で調べものが必要になる筈なので、ノートPCを持ち込んだ。職場の1階から3階までは、無線LANが使える。載せる情報を得たり、固有名詞を確認したりするためには、現在はインターネットの環境が欠かせない。エディターが必要とするかしないかに関わらず、関係する情報を調べておくということも、当然なことながら必要な仕事となる。
 昼過ぎ2時から作業を開始。作業時間をできるだけ短縮するために、素材を見ながら、その話を聞きながら、抽出する部分を考えながら、作品のテイストを考慮しながら、テロップの原稿を起こしながら、検索をしながら、次の編集点を考慮しながら、というマルチタスク。僕が特別なことをしているのではなくて、編集に立ち会うディレクターだったら、必然だろう。これくらいは、ほぼ同時に考えないと時間ばかりが過ぎて、仕事にならない。
 いわゆるクリエイティブな分野、物作りの仕事には、それなりの才能が求められるというのは、間違いない。しかし、アーティスティックな発想が求められる、というよりも、むしろ、根気よく続けられるか、効率良く作業が進められるかが、必要なスキルだろう。その人なりの個性や才能とは、その先に少々加わるくらいだろうと散見される。
 概ね、夜中の1時過ぎには終わるだろうと予想していたが、ちょっとしたトラブルもあって、3時間オーバーして完パケ。すぐに2つのフォーマットにプリントして、終了。明るくなり始めた頃に、エディターとタクシーで帰宅。ベッドに入ったのは早朝の5時30分過ぎ。


6月6日(土曜日)
 結局、1時間半ほど寝て、起床。いつもより少しだけ遅い朝食。朝の気温は、17.6℃。そのまま出勤しても良かったのだが、昼過ぎからは営業的な仕事が控えていたので、大事をとって、さらに2時間ほどベッドに。3年程前までは、一睡もせず翌日の仕事に、ということも稀にあったから、そのあたりが歳をとった証しになるだろうか。まあ、こうして書いているほどは、考えていないけれど。
 営業的仕事といっても、僕の場合は、ありがちなセールストークではなく、問題点や困難を隠さないよう、ありのままを伝える。美辞麗句を並べることもしないし、宣伝が先行するような材料も伝えない。そもそも、営業的な活動にはむいていない、ということなのだろうけれど、綺麗ごとばかりを羅列して、不事実不本当でないことを伝えるよりかは、遥かに楽だし、それが伝えられた人達のためにも職場のためにもなる、と考える。結果的に、乗じる人が少なくなったとしても、それが組織にはプラスになるだろう。正直な話、そのようなありがちなセールストークに乗じるような人は、いらない。うん、やはり、営業は不向きなようだ。
 夕方に帰宅。家の窓ガラスにカマキリの子供がついていた。慌ててデジカメを持ってきて撮影。ハクモクレンを剪定してからは、タマゴを見なくなったので、やや心配していたけれど、どうやら、アジサイの枝にタマゴが産みつけられていたようだ。夕食後は、映画を2本、たて続けに観た。その後は、1週間分の録画予約をして、11時過ぎに就寝。明日は、久しぶりに日記をネットにアップする予定。こうしてここに書いておけば、恐らく、そうするだろう。


6月7日(日曜日)
 朝の気温、19.2℃。北西の風が、やや意欲的に吹いている。乾燥した空気が流入したせいか、透明度の高い空気によって、山の稜線が明瞭に見える。
朝食前から「刑事コロンボ」。朝食後は、洗濯をしたり掃除をしたり、雑誌を眺めたり音楽を聴いたり、そして、予定通り日記をネットにアップしたり、という、非常に意欲的な活動、休日日曜日。
 午後は、エスプレッソマシーンを石灰除去をして、Macintoshをリスタート。買おうかと迷っている、MacBook Proの調べものと考え事。2台のMacに役割分担をさせようとしても、結局は、ハイスペックで動作速度が高い、新しい機種を独占的に使うことになることは、避けられないだろうし。液晶画面の大きさは従来機種の方が大きくて見やすい、けれど使用頻度は新しい機種の方が上、というのも、自分のことながら、釈然としない。今までにないことなので、そのような環境を、リアルには想像できない。しばらくは、買わないような気がしてきた。夕方は図書館へ。今回は4冊。雑誌などを見ないですぐに帰宅。
 先月から、iPhoneに、メモ帳のAppをインストールして使っている。購入時から既に入っている純正のメモAppもあるけれど、背景色などのデザインが好みでなかったため。最近、ネットの専用サイトにアップでき、自動的にシンクロされることを知り、それを利用している。基本的にiPhoneは常に持ち歩いているので、それほど便利だとは感じないものの、メモの内容を使ってMacやpcで文章を起こすときには楽。そろそろ、新しいiPhoneが高速・高機能化されて発売されるようだけれど、現状、まったく不満はなく、買い替える予定も、まったくない。ちなみに、今まで、1年毎に機種変更をしていたドコモのケータイも、替える予定はない。どちらも、あと2年は使うことになるだろう。特にケータイはほとんど使わなくなっているので、興味がまったくない。 iPhoneは、新しいAppや新しいOSをインストールする度に、気分は新しいものへの機種変更と同じになる。物足りなさや高機能化を望んだり、不満に感じたりすることもないし。

人見知りタイプ(〜5/31)

into-the-sky2009-07-13



5月25日(月曜日)
 昨夜の雷雨の影響か、気温が下がり、空気もやや乾燥している朝。気温は、16.2℃。
 いつも通りの朝、いつものように出勤。8月頃までは、隙間無く仕事が並んでいて、職場で雑務をこなしたり、考え事をしたりする機会があまりない。金曜日を休めるようにしたけれど、仕事を休むというよりかは、出勤して、傍らの仕事をする時間に充てられる。
 僕は、どちらかというと、子供の頃から、常に人見知りタイプであって、それは基本的に今でも変わらない。ただ、今は、一応社会人おとして、それがあまり表面に出ないように装ってはいる。自分が平均的で社交的な人間だと見られたいがための背伸びではなく、仕事を進める上で、そうしたほうが、面倒でないからだ。
 少し違う話かも知れないけれど、お互いをたいして知りもしない他人から、馴れ馴れしくされるのも好きではない。性別も年齢、そして立場も関係なく、である。あえてこういう書き方をするけれど、少しでも隙を見せた途端に、異様に近づいてくる相手には、今後ずっと、シャッターする。一度でもシャッターを降ろせば、たまに脇の小窓から、あるいは、少しだけシャッターを上げて応対する、というくらい。もう二度と、完全に上げることはない、というくらい、それは徹底される。
 ある程度の親しさとは、時間の経過によって培われるものだ。行動を共にする中で、何かに対して共感したり意見を交換したりする。そうして、お互いの考え方が解ってから、場合によってはある程度の慣れ親しい間柄になっていく。これが、極自然な姿だと思う。ほとんど親交も会話もない、お互いを知りもしない状態での馴れ馴れしい言動は、僕がするのも嫌いだし、されたくもない。何のために接してくるのかが疑問だし、そもそも本質とは違う部分に、相手の欲する動機がある場合がほとんどだろうと、散見される。僕は、そういう疑念にエネルギーを使えるほどの能力もないし、向き合って応対するほどの余裕もない、ということ。だから、そういう相手に対しては、なるべく悟られないように、そっと静かに排除していく他にないわけである。


5月26日(火曜日)
 朝の気温、15.5℃。少しずつ、空気が冷やされていく感じ。けれど、ひとたび、雲に隙間ができると、すべての光がそこに収束されるように、強い陽射しと暑い空気を感じる。ベッドから出た時は、冷えて重たい空気も、家を出る頃には、軽く暖かい空気に変わっていることも、この時期、少なくない。着ていくものに、一番困る季節だろう。
 稀に意に反して、悩みを告白するように、その憂鬱さを書き記しているブログを目にすることがある。また、僕の知人(と書く程の知人でもないが)にも、そういう人が居る。最初に断っておくが、そのような投稿の内容や表現に対して、否定的な意見は、一切もたない。個人の自由だし、むしろ、そうして出力をしたほうが良いだろうとさえ思う。
 そのようなものを見たり、少々話を聞いている限りにおいては、その本人の強い拘りを感じるし、理想の世界への憧れを感じる。
 悩みや欲求とは、それらが1つ達成されると、より高次なものへと進行する。空腹が満たされると眠気が訪れ、多忙な状態から脱すれば、やがてやりたいことを模索するようになる。悩みを持つこと、不安を感じることが人間の常なので、絶えず、何かに対して不満を持つし、それが是正されることを期待する。そうして、衣食住、それにトータルでの生活環境が整うと、その悩みは、傍ら的なことに、シフトする。高次なものへと欲求が変移すればするほど、その実現が次第に難しくなっていく。既に整った環境は忘れられ、目先の困難に悩みは収束される。
 けれども、これまでは一般論であって、誰もが感じ、誰もが直面していることだろう。ただ、これらに強い拘りが加わると、逃げ場を失う。みずからが作る理想への、渋滞する道路からの回避が難しくなるわけである。すると、進んできたこれまでの道への否定が始まる。容易に後戻りできない環境に対して、不満が抑えきれなくなる。強引にぶつけようとして、跳ね返ってくる不満に影響され、さらに、自己への嫌悪感が増していく。そんな流れの中にある、と推測される。
 厚みや奥行きを持つ過去の記憶から、将来への理想と期待を背負う。人間として、当然の行為だ。しかし、すべてを背負いながら前進する能力もまた、人間にはない。だから、経年、それが大きく重たくなったら、保持するものの優先順位をつけて、どこかに大きく放置するしかない。
 ところで、周囲には、跳ね返ってきたものや、少々でも放置されたものが、辺り一面に散在している。足の踏み場もないくらいに、である。まずは、身の回りの掃除と、整理整頓から始めることが良いだろう。思い悩むあなたの部屋、物だらけで、汚くないですか。



5月27日(水曜日)
 昨日の日中の暑さの割に、比較的冷えている朝。17.3℃。気温を下げる風があまり吹かない、夏特有の温度変化みたいだ。
 昨夜は、ある先輩と、2人で会合。8時頃に職場を出て、いつもの焼き鳥屋へと向かった。今日こそは電車のある時間に・・・という、2人の決心は、時間と共に、崩れて消えて、無くなった。結局、深夜の1時過ぎに帰宅。
 こうして、2人での長時間に渡る会合の話をすると、だいたい驚かれる。まずは、男性同士であるということ、長時間であること、そして、何度も頻繁に、ということに対してだろう。けれど、僕は、そのような機会をもつ先輩は3名。職場内外や回数に拘らなければ、10名にはなる。もちろん、皆歳上である。これが多いのか少ないのかというのは解らないけれど、友人の数がごく少数だ、ということを加味し、職場の環境を考えると、相対的には多い、ということになるのだろう。
 いわゆる「酒の力を借りて・・・」ということもない。日頃から、会話をしたり行動を共にしている人がほとんどなので、そういう場だから、という理由で取り立てて話す必要性もないわけである。話の中で最も多いのは、雑談。次いで趣味の話、仕事に関わる事と続く。長時間になっても、この比率はほとんど変わらない。そして、話す順は、仕事・趣味・雑談となる。もちろん、酔った勢いで声を荒げるようなことにはならない。概ね、皆、酒が強いようだ。穏やかに、静かに、そしてゆっくりと話をするだけ。このようにして、流れる時間はゆっくりだけれど、刻む時間は、あっという間に進む。結果、終電が終わったかなり後に、帰宅することになるのだ。
 火曜日と水曜日は、ほぼ同じの、ほぼ一日仕事。人が入れ替わるだけ。この仕事が主軸となって、回数をこなしていくうちに、やがて、夏がやってくる。
 9時過ぎに帰宅。ハーゲンダッツだけの簡単な夕食を済ませ、11時過ぎに就寝。



5月28日(木曜日)
 昨日は、夜遅くになって、さらに雨の強さが増した。間断なく、同じ強さで降り続いているので、正しくチューニングされていないラジオのノイズを聞いているような感じ。空調の大きめな音、かもしれない。かなり大きな音だけれど、煩さにも気にならず、ベッドに入った。
 6時の気温は、18.1℃。これくらいの気温で、雨が降って湿度が高いと、晴れている朝に比べて、涼しく感じる。家を出る時間から、すでにやや強い雨
 最近、視力が落ちてきた。以前より遠くも見えなくなったし、昨年くらいからは、近くの見えなさも、だいぶ気になるようになってきた。どうやら、嗅覚も聴覚も良い方の部類に入る人間なようなのだが、比較、視力は弱い。ただ、今、かけている眼鏡は、遥か昔(たぶん15年以上前に検眼した時の、数値や仕様をそのまま引き継いで作ってもらっているレンズが入っているから、合っていないといえば、その通りなのだろう。随分と前から視力に合っていない眼鏡を使っているが、その見え方がデフォルトなので気にならないし、見えなくなってきたことに気はついても、替えようということには至らない。まあ、ありていにいえば、無精なのである。
 ただ、世の中、伝染病や風邪が流行るとすぐにマスクをしたり、体調が悪いとすぐに医者にかかったり、すぐに栄養剤を飲んだり薬を飲んだりする人が居る。どうも、早く、そして過剰に反応しているように散見される。いや、しかし、個人の対応策なんて、それこそ個人の自由だし、そういう動作が間違っているだなんて、まったく思わない。どうでも良いことである。ただ僕は、もう少し、周囲や自分自身を観察してから行動に起こそうと思う質の人間なのであって、もう少し、自然に任せようと思う気持ちが勝っている、ということ。 まあ、こう書くと多少聞こえは良いのだが、要するに、その方面にはあまり感心がなく、とにかく無精な人間だ、というわけである。



5月29日(金曜日)
 昨日に引き続き、真剣な雨。気温は15.2℃。これだけしっかりと雨が降っていると、気温はほとんど気にならない。
 これといった仕事はないけれど、ほぼ1週間分の雑務をこなすために出勤。メールのリプライをしたり、他のスタッフといろいろと相談をしたりという作業。こういう日が、1週間でもう一日くらいは欲しい。個人的に、休日に出勤すれば良いわけだが、それができない環境。夜は、若い人達のコンパのようなものに誘われていて、それに出席。騒がしくて耳と頭が疲れるので、最近特に、あまり気が進まない。

 歳を重ねるほど、物事を進めるスピードが緩くなる。早急に慌ててことを進めても、たいした効果は得られないし、粗末な結果を目にしては、考えが浅はかだった、慎重さが足らなかったと、後悔するからだ。長く生きていくと、必然的にその経験も繰り返されるので、慎重さが増していく。結果、スピードも緩くなっていく、というメカニズムである。
 ただ、経験は同様に、手段の効率化をもたらす。同じことは、回数を重ねるほど、早く済ませることができるようになっていく。手段の性急化と、目標までの鈍化が相殺されて、トータルでの経過時間は、それほど変わらなくなる。つまり、単位時間あたりの密度が増していくことになるから、客観的には、洗練されていく傾向になるわけだ。
 少し見方を変えると、一生の残り時間は、確実に短くなっていく。見え聞えるのことないカウントダウンは、生まれた瞬間からスタートする。ある程度歳を重ねると、終わりを気にするようになる。普通に考えれば、次第に焦りを増していくのが自然だと考えられるけれど、実際はむしろ、スローペースになっていると観察される。
 一番生き急ぎ、焦っている時期は、およそ15歳から20歳過ぎまでだろう。精神的にもっとも成長する頃から、それが終わって少し経つまでの期間である。短い期間に貪欲に経験しようと考える結果、いわゆる「多感な年頃」ということになる。


5月30日(土曜日)
 朝は雨が降っていたけれど、日中は小康状態。たまに薄日が射して、その間だけ、少し蒸すように暖かい。気圧配置は違うけれど、気分は梅雨。
 鉢替えしたパキラからは、この時期2度目の新しい芽が出始めた。今回は8組の新しい芽。例外なく1組5枚の葉で構成されているので、40枚が新作される。今年は先月も10組が新登場していて、この多さは、いわゆる自然のサイクルによるものか、鉢替えしたからなのか、解らない。上の方に新しい葉が増えて下の方の古い葉が落ちる、という動作が毎年繰り返されていて、確実に背丈は延びているし、葉の枚数も少しずつ増えているものの、遠目から見た葉の集団の形は変わらない。
 甥と姪が通う小学校の運動会が、雨天のために明日に雨天延期となった。姪が6年生で、今年が最後なので、見に来ることを強く勧められていたけれど、その予定もキャンセル。翌日の予定をすべて前倒し。ブルーレイのHDDに随分と録り貯まっている映画を2本見て、読書をして音楽を聴いて掃除をして・・・といつもの休日のメニュを消化。雨が止んだ夕方は、郵便ポストとドラッグストアに行くために少々の外出。久しぶりのドラッグストアでは、家のストック用に持ちきれないくらいの品物を買い込んだ。
 僕が子供の頃には、たとえばシャンプーの容器は大きくなかったし、詰め替え用も売っていなかった。他の売り物も、基本的には一つずつのばら売りだったから、今より、頻繁に買い物に行く必要があったのだ。頻繁に出向くので、より近くの商店街が反映した。今は、昔と比較して、まとめて大量に買う時代になったぶん、一度にいろいろな物がそして大量に買え、広い駐車場を持つ大型店が、持てはやされるようになったわけである。
 ネットで買おうとする物、まとめ買いをしようとする物、偶発的に買おうとする物、できるだけ近くで買いたいと思う物、大まかにこの4つに分けられるだろうか。もちろん、多少クロスオーバーするわけだが、これらの環境にあっていない商売というのは、今後さらに成り立たなくなるだろう。


5月31日(日曜日)
朝からどんよりの曇り空。決定的な雨も降らないけれど、風に乗ってくるような小雨がたまに。気温は17℃を下回っているが、勢いのある冷たい風が吹いているわけではない。こういう日は、日中、蒸し暑くなる。
 天候は昨日と大きな違いはないようだけれど、運動会は開催することになったらしい。姉家族の家は僕や両親の家から、歩いて8分くらいの所にあって、小学校も同様に近い。僕の両親は、開式の時間後すぐに家を出たが、僕は、映画を見てアウトプットをしてから11時頃に出た。甥がリレーで1位になったらしく、「肝心な時にいないんだから」と言われた。特に活躍ぶりを見に行こうと思っているわけではないので、少し困る。まあしかし、そう、比較的、そういう肝心な時には居ない傾向がある人間である。つまり、僕が肝心と思っているかどうか、ということ。それでも、雨が降り始めて運動会が打ち切りになる2時くらいまでは、居た。それなりにビデオカメラで撮影もしたし。
 父親の友人とその孫の1人が、カナダから来日している。夕方に、来宅するらしく、近くのレストランで、姉の家族と両親とそのゲストと僕の9名で、会食をすることに。僕は、図書館に本を返却しに行って、少し経ってからそれに合流した。父の友人は、以前は日本に居たので日本語が話せるけれど、その9歳(確か)の孫は、ごく僅かしか日本語が話せない。それでも、友人・姉のご主人・父・母の順で英語が解るので、何となくそれなりに会話は成立。姉のご主人は、日常会話程度であれば堪能らしい。僕もその順のどこかに一応入るとは思うけれど、喋らない。完全に解らない振りをして、理解できる少々を頭の中だけで楽しむ、という億病さである。幼く可愛い子供から、堪能な英語が飛び出してくるのが、とても面白い。一般的には、英語を喋る日本人は、もっぱら大人だから、そのギャップに面白さを感じるのだろう。当たりまえのことを書いているが。
 いろいろと楽しく話しをして、夜10時前に帰宅。父と甥は、新宿駅まで2人を送りに行った。非常にパワフル。

生きがいとは  (〜5/24

into-the-sky2009-07-11


5月18日(月曜日)
 昨日より、さらに暖かくなって、朝の気温は、18.6℃。強烈な朝陽があたる玄関は、出るとその明るさに、眼がしみる。それをマイルドにする冷たくまろやかな空気も無い、特に、この時期は。
 駅までの道の途中、iPhoneで今後のスケジュールを見ると、次の休日は、30日の土曜日。確か、30日は、甥と姪の学校の運動会があって、きっと、行かなければならない筈。この間、早く帰宅できる時間もなさそうなので、久しぶりの早朝掃除、早朝洗濯をする予定。それなりに充実した朝になりそうだから、癖にならないように注意しよう。日々の生活に一所懸命みたいで、嫌だし・・・、と書くと、いろいろと誤解を招くだろうか。
 先日、100人くらいの前で、「生きがいは何ですか?」という問いに、答えるような場面があった。僕は、「毎日生きることが生きがいです」と言った。大半の人は、答えることがなくて、オウム返しをしたのだろう、と思ったと推測する。けれど、昨年から「生きる」とか「生きがい」とはどういうことか、と暇な時に考えていて、つまり、日頃考えていることを、普通に発言しただけだったのである。
 他人の生きがいなんて、どういう場面で聞くのかと考えると、だいたいがテレビのインタビュー。まあ、はっきり言って、テレビ用の返答だろう。だから、実際に、そして具体的に「〜〜をすることです」と答える人を見聞きする度に感心するし、一方では、どうしてそれが生きがいになるのだろうか、とも思う。もちろん、これは卑下ではなくて、自分はそういう発想ができない、という、自明なる哀れみである。
 そして、こうして書きながら、想いを巡らせても、やはり僕は、どう考えても、「毎日生きること」以外にでてこない。そもそも、生きがいとは、それが普遍的なものなのかどうかも解らない。たとえば、万が一、恋愛相手が生じたら、それが生きがいになるのか、万が一結婚でもして子供が生まれたら、生きがいが子育てへと変移するのだろうか。では、その対象が突然消えたらどうなるのか。・・・などと、考える。暇なのかな・・・。



5月19日(火曜日)
 3時間ほど睡眠して、6時過ぎに起床。昨日とほぼ同じの、朝の気温。天気も良いし、空気はそれなりに乾燥していて、夏特有の包容されている感じではない。ここ数日、朝の駅までの道の同じ場所で、ウグイスが声をだしている。自分に対して挨拶をしてくれているのだ、と、非常に自分勝手に思い込んでいる、ありがたい人間である。
 昨夜は、僕が居る職場に来た、他の事務所に居る上司から誘われ、8時前に職場を出て、会合。1時間くらいは2人でいろいろと話をし、その後、職場の同僚が2名加わった。結局、僕を含めた3人が、深夜の3時まで店に。
 以前、同じ職場に居た後輩が、結婚を決めたそうだ。ごく単純に、もの凄く羨ましい。ただ、結婚そのものとか、夫婦の絆云々、というよりかは、パートナーとの生活に憧れる、ということ。また、それまでの、面倒ないわゆる恋愛関係よりも、潔い(いさぎよい)結論というか決心というか、そういうものを求めている、ということでもある。
 ここでの、これまでの文章を読んでいる限り、結婚の後の生活に対して、相当、確固たる考えがある、そういうものを持っている人間と思われているものと想像するが、実は、理想の夫婦像や生活感というものは強く持っているわけではない。子供は欲しいとも思うけれど、子供を持たないスマートさというか、小回りが利くように散見される生活も良いとは思う。特に強い拘りはない。まあ、そんなことは言っていられない、という、極めて現実を直視した結果の考え、といって当たらずとも遠からず・・・。
 今、偶然にも、主に自らの結婚生活に関する日頃の雑感が書かれている、ある作家のエッセイを読んでいる。もちろん、それからのインプットに対して、今日、このように書いているわけではないのだが、その文書を読むと「それで一緒にいる意味があるのか」と思うし「無理して有意義なものと考えようとしている」とは思う。幸せそうな雰囲気は、微塵も感じない。それは、周囲には解りにくい何かによるものなのか。あるいはそれは、実際に結婚しないと解らぬものなのか。とにかく、今の僕には、よく解らない、のである。


5月20日(水曜日)
 昨日よりかは、やや積極的な風が吹いている。体感温度は昨日とほとんど変わらず。ただ、陽射しは、昨日より痛く感じる。ブラインドモードは、相変わらず。今回は、浅く長いみたいだ。ただ今回も、何かに思い悩んでいるわけではなく、むしろ、思い悩む余裕がない、という状況。
 8月頃にある、大きなイベント2つの準備を開始。まだ、頭の中のイメージの話。いろいろな人の協力を要請したり、人を動かすのは、来週くらいからだろう。今年は、これまで紆余曲折があったけれど、結果として再び協力することになった。そのうちの1つの仕事は、関わり始めてから今年で10年目、もう1つは、4年目。長短に関係なく、いずれも節目にあたる。淡々とした状況や単純なルーチンワークが、ただ長く続くということを避けるためにも、有効な紆余曲折だったと観察される。しかも、以前よりも、一段と環境が整ったとさえ感じる。実は、結果としてこうなることを、当初から予測はしていたのだけれど。
 仕事を終えて、夜10時前に帰宅。夕食は、ハーゲンダッツの季節限定の味。すでに容器を捨ててしまって、名前は解らない。一週間ほど、映画の録画予約をしなかったため、未視聴作品のストックがなくなっている。そこで、Macintoshのリスタートをしたり、久しぶりの長い読書をしたり。


5月21日(木曜日)
 朝の気温は、17.5℃。窓の外の緑は、すっかり熟成され、真新しさというものは感じない。まあ、明確に言えば、新緑を見飽きた、ということだろうか。
 朝食時に1階の母屋に降りると、大きなアジサイの花が飾られていた。買ってきたのかと思ったら、家の庭に咲いているアジサイを、剪定したものらしい。そうか、庭にはそんな花も育っているのか、と思ったしだい。庭は、1階に住んでいる両親の家のテリトリーなので、僕はほとんど立ち入らない。上から見ると、空きスペースが無いくらいに、沢山の草や木や花が育っているけれど、ハクモクレンと街路に面した所にある小さな木以外の、ほとんどすべての草木は、どこからともなく種が飛んできて、成長した植物達だ、とのこと。その中には、桜の木もある。昨年、専門の業者に依頼して、剪定してもらったようで、その反動で今年は、どれもボリュームが増しているらしい。ちなみに、3階にある10畳ほどのスペースは、僕のテリトリーだけれど、ここは「結婚してから」などと思っていて、結局、新築以来、特に何もしていない。正方形に近く、見晴らしなどの条件も良いので、いろいろとアイデアはあるのだが。
 今週の月曜日から、駅までの途中にある私鉄線の検車区では、今年度3編成目の新車の搬入が始まっている。僕が見かける時間は、大抵毎日2両ずつ搬入される先の1両目が、台車に降ろされようとしている最中。軌間(レールとレールとの幅)がJRとは違うようで、仮の台車を履かせて、車両工場がある名古屋から川崎までの間をJR線を運んだ後は、トレーラートラックに載せられ、一般国道を運ばれて来る。検車区に到着すると、車両の2カ所にベルトを渡し、2台の大きなクレーンで、トレーラーより吊り上げられて、線路上の台車に降ろされているらしい。いつか一部始終を観察しようかと思っているのだが、なかなか実現しない。


5月22日(金曜日)
 朝から強い南風が吹いている。気温も20℃を越えていて、既に暑い。「すっきりしない天候」という予報が出ていたが、時折、鮮やかな空と強い陽射しが降り注いでいて、気持ちが良い朝。駅に着いてホームに立つと、消滅しかかっている雲が、上下に渦を巻くように、動いている。勢いの強い南風によって、形を崩されているようだ。
 特に定常的な仕事があるわけではないが、出勤。ただし、夕方には、機材設備に関連する、あるプロジェクトの打合せが一件。およそ1時間ほど。役割上、僕が言いたいことを話すという時間。その中で、数件は、製作に半年ほど要する機材設備もあって、来月には決定をして注文しなければならない。値段の交渉も基本的には僕がするので、定常的な仕事のない金曜日は、そのような時間に充てられることになるだろう。いずれにしても、機材設備に関する懸案事項は山積していて、それに対してどのようにして時間と機会を捻出するか、が課題。
 その打合せまでは、例によって、いろいろと雑務をこなした。ほぼすべての仕事が、自分のペースで進められるので、清々しい気持ちで仕事に打ち込める(やや誇張)。
 夜9時過ぎに職場を出て、駅までの住宅街をゆっくり歩いた。駅に近いある家の玄関前には、大抵いつも三毛猫がいる。家の脇に猫用の小さな小屋があって、そこが本拠地になっているようだ。今夜も、正面を向いたまま、行儀良く座っていた。ホームに着き、電車に乗ると、妙に運転が雑で、停車位置より少し行き過ぎるし、急に止まる度に、ほとんどの乗客が大きく動き、客同士がぶつかりあうこともしばしば。最前の車両の運転席の後ろに立っていたので、マスコンを動かす音が聞こえた。やはり雑な操作をしているように感じられる音だった。運転手の具合でも悪かったのだろうか。この鉄道線としては、珍しい。千葉の方から来て、調布駅を22時前に出発する急行電車。一転、最寄り駅から乗車した、その鉄道線と同じ会社のタクシーは、都内でもトップレベルではないか、と思う程の、非常に丁寧な対応だった。


5月23日(土曜日)
 18.8℃の朝。適度に涼しい、ちょうど良い冷え具合。
 土曜日だけれど、出勤。職場とは直接関係なのだが、毎年この時期、ある講座を頼まれていて、1時間30分の講義を2回繰り返して行っている。僕が教える分野において、専門知識を持っていない人達が多い中、薄く広い話をするのではなく、「これはくらいは分野に関わらず知っておこう」という部分に関して重点を置く説明をしている。勝手な推測では、講座内容を半分程度理解している人は全体の5割、ほぼすべてを理解している人は全体の3割程度だろう、という分析。もう少し理解度が上がってしかるべきだとは思うけれど、これ以上難易度を下げるつもりもない。
 講座が終わった後は、力を必要とする工作のような作業を少し。それをやっているうちに、指先の感触がベタつくようになってきた。特に気にかけることもなく続けると、さらに違和感が増し たので試しに見てみたら、指先の一部が、かなり深く切れていた。痛みもなく、血がほとんど出ていないのが不思議。夕方頃に帰宅。
 最近の若い人は、車を買わなくなったようだ。僕の世代だと、自動車免許を取得して車を乗り回す、というのが、大人への第一歩だと感じるところがあって、それまでの夢の1つだった。テレビドラマでそのような部分を見ると憧れたし、バスの中から比較的若い人が運転している姿を見ると、羨ましく思った。車の雑誌もかなり買ったと思うし、父親に頼んで、カタログも何冊も貰っては、何度も眺め見たものだ。しかし、これは一過性の流行というものではなく、そのような世代だったし文化だった。恐らく、そう簡単には手に入らないもの、簡単に実現しないものへの、欲求の現れだったのだと散見される。
 今は、その気になれば手に入る時代になったし、もっと、自分の周囲の物事に対して、手間や時間をかけるようになった。だから、教習所に通って免許は取得するけれど、自分で自分の車を運転するという、いわば、社会的な動作には興味を抱かなくなった。車のローンよりもケータイになり、運転よりもネットになった。待たされることなく、すぐに達成されるものが増える反面、渋滞して待たされる運転にも、やはり興味がなくなったのかもしれない。
 遠くへの憧れは、近くの現実、それをこなすことへと変わったのだろう。


5月24日(日曜日)
 体感は、視覚も温感も、昨日の朝とほぼ同じ。ただ、今朝のほうが、少しだけ暗いかもしれない。空気は濁っているし、陰影も少なくて、見ていてもあまり面白くない光景の朝。
 やはり今日も出勤。日曜日によくある、一種の営業的な仕事をこなした。夕方頃帰宅。
 夜は、映画を1本だけ観た。面白いと感じる映画だったけれど、タイトルは知らない。その後は、Macintoshでいろいろな音楽を聴いた。外は断続的にやや強い雨が降っている。たまに遠くの雷の音が聞こえていたが、9時44分頃に、すぐ近くに落雷した。地響きがするほどの光と音。ただ、この1回だけで、後は、再び遠くの方から僅かに聞こえるだけ。遠慮しているのかしていないのか、消極的なのかそうでないのか、よく解らない雷だった。
 例のインフルエンザは、国内の感染者が増えると同時に、冷静沈着な方向への導きが始まった。遠くの出来事だったものがリアルになって、今までの大げさな対処や過剰な報道と実際のとのギャップを、認識せざるを得ない状況になったからだろう。僕は、政府のとった過度な対策には賛成だし、むしろ、そうあるべきたとも思う。しかし、それに、マスコミの過剰な報道が加わると、幾何級数的に、騒ぎは大きくなる。みずから、騒いで当然だ、という流れに導き、そしてみずから騒ぐ、という構図。やらせ、という名の演出と、何が違うだろうか。

立派な絵画になる

into-the-sky2009-06-14


5月14日(木曜日)
 朝6時の気温は、およそ14℃。久しぶりにヒンヤリとした空気に包まれている。今朝も、野鳥の独り言のような声が聴こえてくる。聴こえると慌てて窓を開けて、その声を楽しむ。
 最寄りの駅までのほとんどは、平成11年に新しく開いた街の中を歩くことになる。今、こうして、ここに書くまで気がつかなかったのだが、先月で、ちょうど10年が経った。旧来からの街道沿いに区画整理を施した、宅地造成地ではない。それまで、人独りも入らなかった広大な敷地に、街全体を新たに作り上げた街。だから、そこにあるもののほぼすべてが、10年前に作られたものだし、置かれたものだし、新しく生まれたもの、である。
 その時間の経過を最も感じるのは、木々の影の大きさ。10年前は日陰がなく、夏になると、全体が黄色い光だけに包まれていた歩道には、今は、大きく成長した影がある。コントラストがなく、凹凸も奥行きも感じづらかった芝生のゲレンデにも、今は、大きな青い影が落ちている。その影を作っている木々の膨張した部分には、野鳥が隠れるようにとまっているし、そこからの枯れ葉が増えるとこによって、虫が増えたり、違う植物が繁栄を始めたりしている。 絵の具であれば、一色で簡単に描かれていた風景には、グラデーションが増え、違う色も混じりだし、その形もボリュームも変わった。つまり、多彩で複雑な、立派な絵画になってきたのである。


5月15日(金曜日)
 昨日より、さらに冷え込んだ朝。気温は12℃。
駅から職場への道の途中に、小さな金物店がある。駅近くの繁華街から少し離れたところによくある、親子2代で経営しているような、店。
 電器スタンドというか、卓上マイクというか、それらのようなフレキシブルな構造を持つ扇風機が1つだけ、店頭に展示されていた。歩きながら流し見をして、一旦は通り過ぎたのだが、30メートルほど歩いてもう一度見てみよう、ということになり、引き返してゆっくり観察した。アルミとスチールで作られた4枚羽。もちろん、首振り機構も風量切り替えもタイマーもないけれど、そのデザインと羽の枚数が気に入った。さらに、自宅でも夏の仕事でも使えるな、と思い、1分くらいいろいろと考えて、結局購入することに。確か、値段は1500円くらい。
 帰宅して、早速、Macintoshの隣に置いた。1メートルくらい離れて、上半身全体に軟らかな風を受けるという具合の性能。少し気にしていた音も、ほとんど気にならず、合格。なにしろ、安物のプラスティッキーな印象もなく、値段のわりに、デザインもかわいい。
 定常的な仕事は一切なく、細かい雑務をこなした。夜10時頃に帰宅。
 このところ、ややブラインドモード。悩みがあるわけでもなく、明確な忙しさも感じないが、薄い雲が空一面に広がるように、頭も体もいろいろと。ということで、日記の量が減っている。投稿は、再び遅れるだろう。


5月16日(土曜日)
 暖かい朝の盛り返し。14℃と少し。土曜日の朝は、食事の時間は平日とたいして変わらないけれど、家を出る時間は30分程度遅くてすむ。帰宅後や休日の30分とは大きく違い、随分とゆっくり過ごせる、気分になれる。コーヒーをもう1杯多く淹れて、音楽を聴きながらMacintoshに向かって、ゆっくりと前日の日記を書く。言わずもがな、出勤する平日もさらに早く起きて、ゆっくりすれば良いわけだし、この30分がデフォルトになれば、この気持ちの良さもなくなる。過去の記憶に奥行きを持ち、それぞれの個別の環境での思考を得意とする、人間ならではの、気持ちの変化である。依然として、ブラインドモード。
 出勤して、午前中は、定例の会議。いつもより倍近い、長い時間だった。イレギュラーな会議と違って、流れも終わりも想像できるので、退屈はしないし、窮屈な感じもしない。それぞれのスタッフが、必要に応じて話をしている、ということ。
 昼過ぎは、いろいろと雑務をこなし、日が暮れた夕方からは、職場の中の屋根のないスペースで、懇親を兼ねたバーベキュー。職場が職場だけに、食材以外、特に用意することもなく、必要な道具も必要な照明も、すべて自前のもので、事が足りる。配電盤から仮設電源を引っ張るスタッフがいるし、良い具合に照明をあててくれるスタッフもいる。いわゆる「仕切り屋」(言葉が乱暴だが)みたいなスタッフや、もの凄く気を利かせてくれる若いスタッフばかりなので、こういった催事が、いつでも簡単に行える。事ある毎に、「あ、こういう職場なのだな」と再認識するわけである。
 9時を過ぎたあたりで場所を移動して、三々五々、大半のスタッフが帰宅していったが、僕を含めた4名は、夜半を過ぎた最後まで、会合を続けた。僕はもっぱら、聞き役に。そういう場で、積極的に主張したり、他の意見に対して反応してみたり、ということはしないようにしようと、決めているからである。いろいろと発言する人が悪いとは、まったく思わない。個人の自由だ。けれど、僕は、もう、そういうことにエネルギーを使うのをやめようと、決めている。ただ、それだけのことだ。


5月17日(日曜日)
 朝の気温は、15.3℃。昨日と比較して、広いリビングルームに電器ストープ、ほどの暖まり具合。好天ではないけれど、雨は前日の予報ほど降らず。午前中は、やや久しぶりの映画鑑賞。ある女性2人が、年末に住まいを交換して・・・という、少し変わったストーリーだだった。もちろん、例によって、見るまで内容は知らず。
 午後は、「刑事コロンボ」を見て、家の掃除をして、夕方前に図書館へ。専門書などを4冊借りた。そのうちの1冊は、都内の川についての専門書、とたまに記しておこう。
 連休中、4日違いまで縮まった、日記のアウトプットと、ここへの投稿日との差が、また2週間弱に広がっている、だろう。この文章を投稿する時点での、話。今、ここに「久しぶりの投稿」と書いても、この文章が投稿される時は、そんなことないのかも知れない。
 そろそろ、「騒ぎ過ぎではないか」という意見が出てくる頃だろうな、と思っていたら、やはり、案の定、そんな雰囲気になってきたみたいだ。実際、広まらないということが前提の対応策だから、本当に増えて広まってしまったら、それほどの対応ができなくなる、という、ごく必然的な流れの中の話、である。これが、感染者は増える一方、事態は沈静化に向かう、という、一見、矛盾した実際のメカニズムである。インフルエンザの話。
 夜は、本を3冊、ベッドに持ち込んでの読書。多少、まどろみながらの読書は、日中のそれとは違った楽しさがある。読書を始めた数年前から、ベッドに常に2冊以上の本が無いと、気が済まなくなった。大抵、専門書とノンフィクションものが、3冊置かれているが、読みたいと思う本の傾向で、その日の気分が解る。僕の場合、特に考えていることがない場合は、専門書を読む傾向にある。このところは、しばらくノンフィクションを読んでいる。
 ブラインドモード、浅いながらも進行中。