生きがいとは  (〜5/24

into-the-sky2009-07-11


5月18日(月曜日)
 昨日より、さらに暖かくなって、朝の気温は、18.6℃。強烈な朝陽があたる玄関は、出るとその明るさに、眼がしみる。それをマイルドにする冷たくまろやかな空気も無い、特に、この時期は。
 駅までの道の途中、iPhoneで今後のスケジュールを見ると、次の休日は、30日の土曜日。確か、30日は、甥と姪の学校の運動会があって、きっと、行かなければならない筈。この間、早く帰宅できる時間もなさそうなので、久しぶりの早朝掃除、早朝洗濯をする予定。それなりに充実した朝になりそうだから、癖にならないように注意しよう。日々の生活に一所懸命みたいで、嫌だし・・・、と書くと、いろいろと誤解を招くだろうか。
 先日、100人くらいの前で、「生きがいは何ですか?」という問いに、答えるような場面があった。僕は、「毎日生きることが生きがいです」と言った。大半の人は、答えることがなくて、オウム返しをしたのだろう、と思ったと推測する。けれど、昨年から「生きる」とか「生きがい」とはどういうことか、と暇な時に考えていて、つまり、日頃考えていることを、普通に発言しただけだったのである。
 他人の生きがいなんて、どういう場面で聞くのかと考えると、だいたいがテレビのインタビュー。まあ、はっきり言って、テレビ用の返答だろう。だから、実際に、そして具体的に「〜〜をすることです」と答える人を見聞きする度に感心するし、一方では、どうしてそれが生きがいになるのだろうか、とも思う。もちろん、これは卑下ではなくて、自分はそういう発想ができない、という、自明なる哀れみである。
 そして、こうして書きながら、想いを巡らせても、やはり僕は、どう考えても、「毎日生きること」以外にでてこない。そもそも、生きがいとは、それが普遍的なものなのかどうかも解らない。たとえば、万が一、恋愛相手が生じたら、それが生きがいになるのか、万が一結婚でもして子供が生まれたら、生きがいが子育てへと変移するのだろうか。では、その対象が突然消えたらどうなるのか。・・・などと、考える。暇なのかな・・・。



5月19日(火曜日)
 3時間ほど睡眠して、6時過ぎに起床。昨日とほぼ同じの、朝の気温。天気も良いし、空気はそれなりに乾燥していて、夏特有の包容されている感じではない。ここ数日、朝の駅までの道の同じ場所で、ウグイスが声をだしている。自分に対して挨拶をしてくれているのだ、と、非常に自分勝手に思い込んでいる、ありがたい人間である。
 昨夜は、僕が居る職場に来た、他の事務所に居る上司から誘われ、8時前に職場を出て、会合。1時間くらいは2人でいろいろと話をし、その後、職場の同僚が2名加わった。結局、僕を含めた3人が、深夜の3時まで店に。
 以前、同じ職場に居た後輩が、結婚を決めたそうだ。ごく単純に、もの凄く羨ましい。ただ、結婚そのものとか、夫婦の絆云々、というよりかは、パートナーとの生活に憧れる、ということ。また、それまでの、面倒ないわゆる恋愛関係よりも、潔い(いさぎよい)結論というか決心というか、そういうものを求めている、ということでもある。
 ここでの、これまでの文章を読んでいる限り、結婚の後の生活に対して、相当、確固たる考えがある、そういうものを持っている人間と思われているものと想像するが、実は、理想の夫婦像や生活感というものは強く持っているわけではない。子供は欲しいとも思うけれど、子供を持たないスマートさというか、小回りが利くように散見される生活も良いとは思う。特に強い拘りはない。まあ、そんなことは言っていられない、という、極めて現実を直視した結果の考え、といって当たらずとも遠からず・・・。
 今、偶然にも、主に自らの結婚生活に関する日頃の雑感が書かれている、ある作家のエッセイを読んでいる。もちろん、それからのインプットに対して、今日、このように書いているわけではないのだが、その文書を読むと「それで一緒にいる意味があるのか」と思うし「無理して有意義なものと考えようとしている」とは思う。幸せそうな雰囲気は、微塵も感じない。それは、周囲には解りにくい何かによるものなのか。あるいはそれは、実際に結婚しないと解らぬものなのか。とにかく、今の僕には、よく解らない、のである。


5月20日(水曜日)
 昨日よりかは、やや積極的な風が吹いている。体感温度は昨日とほとんど変わらず。ただ、陽射しは、昨日より痛く感じる。ブラインドモードは、相変わらず。今回は、浅く長いみたいだ。ただ今回も、何かに思い悩んでいるわけではなく、むしろ、思い悩む余裕がない、という状況。
 8月頃にある、大きなイベント2つの準備を開始。まだ、頭の中のイメージの話。いろいろな人の協力を要請したり、人を動かすのは、来週くらいからだろう。今年は、これまで紆余曲折があったけれど、結果として再び協力することになった。そのうちの1つの仕事は、関わり始めてから今年で10年目、もう1つは、4年目。長短に関係なく、いずれも節目にあたる。淡々とした状況や単純なルーチンワークが、ただ長く続くということを避けるためにも、有効な紆余曲折だったと観察される。しかも、以前よりも、一段と環境が整ったとさえ感じる。実は、結果としてこうなることを、当初から予測はしていたのだけれど。
 仕事を終えて、夜10時前に帰宅。夕食は、ハーゲンダッツの季節限定の味。すでに容器を捨ててしまって、名前は解らない。一週間ほど、映画の録画予約をしなかったため、未視聴作品のストックがなくなっている。そこで、Macintoshのリスタートをしたり、久しぶりの長い読書をしたり。


5月21日(木曜日)
 朝の気温は、17.5℃。窓の外の緑は、すっかり熟成され、真新しさというものは感じない。まあ、明確に言えば、新緑を見飽きた、ということだろうか。
 朝食時に1階の母屋に降りると、大きなアジサイの花が飾られていた。買ってきたのかと思ったら、家の庭に咲いているアジサイを、剪定したものらしい。そうか、庭にはそんな花も育っているのか、と思ったしだい。庭は、1階に住んでいる両親の家のテリトリーなので、僕はほとんど立ち入らない。上から見ると、空きスペースが無いくらいに、沢山の草や木や花が育っているけれど、ハクモクレンと街路に面した所にある小さな木以外の、ほとんどすべての草木は、どこからともなく種が飛んできて、成長した植物達だ、とのこと。その中には、桜の木もある。昨年、専門の業者に依頼して、剪定してもらったようで、その反動で今年は、どれもボリュームが増しているらしい。ちなみに、3階にある10畳ほどのスペースは、僕のテリトリーだけれど、ここは「結婚してから」などと思っていて、結局、新築以来、特に何もしていない。正方形に近く、見晴らしなどの条件も良いので、いろいろとアイデアはあるのだが。
 今週の月曜日から、駅までの途中にある私鉄線の検車区では、今年度3編成目の新車の搬入が始まっている。僕が見かける時間は、大抵毎日2両ずつ搬入される先の1両目が、台車に降ろされようとしている最中。軌間(レールとレールとの幅)がJRとは違うようで、仮の台車を履かせて、車両工場がある名古屋から川崎までの間をJR線を運んだ後は、トレーラートラックに載せられ、一般国道を運ばれて来る。検車区に到着すると、車両の2カ所にベルトを渡し、2台の大きなクレーンで、トレーラーより吊り上げられて、線路上の台車に降ろされているらしい。いつか一部始終を観察しようかと思っているのだが、なかなか実現しない。


5月22日(金曜日)
 朝から強い南風が吹いている。気温も20℃を越えていて、既に暑い。「すっきりしない天候」という予報が出ていたが、時折、鮮やかな空と強い陽射しが降り注いでいて、気持ちが良い朝。駅に着いてホームに立つと、消滅しかかっている雲が、上下に渦を巻くように、動いている。勢いの強い南風によって、形を崩されているようだ。
 特に定常的な仕事があるわけではないが、出勤。ただし、夕方には、機材設備に関連する、あるプロジェクトの打合せが一件。およそ1時間ほど。役割上、僕が言いたいことを話すという時間。その中で、数件は、製作に半年ほど要する機材設備もあって、来月には決定をして注文しなければならない。値段の交渉も基本的には僕がするので、定常的な仕事のない金曜日は、そのような時間に充てられることになるだろう。いずれにしても、機材設備に関する懸案事項は山積していて、それに対してどのようにして時間と機会を捻出するか、が課題。
 その打合せまでは、例によって、いろいろと雑務をこなした。ほぼすべての仕事が、自分のペースで進められるので、清々しい気持ちで仕事に打ち込める(やや誇張)。
 夜9時過ぎに職場を出て、駅までの住宅街をゆっくり歩いた。駅に近いある家の玄関前には、大抵いつも三毛猫がいる。家の脇に猫用の小さな小屋があって、そこが本拠地になっているようだ。今夜も、正面を向いたまま、行儀良く座っていた。ホームに着き、電車に乗ると、妙に運転が雑で、停車位置より少し行き過ぎるし、急に止まる度に、ほとんどの乗客が大きく動き、客同士がぶつかりあうこともしばしば。最前の車両の運転席の後ろに立っていたので、マスコンを動かす音が聞こえた。やはり雑な操作をしているように感じられる音だった。運転手の具合でも悪かったのだろうか。この鉄道線としては、珍しい。千葉の方から来て、調布駅を22時前に出発する急行電車。一転、最寄り駅から乗車した、その鉄道線と同じ会社のタクシーは、都内でもトップレベルではないか、と思う程の、非常に丁寧な対応だった。


5月23日(土曜日)
 18.8℃の朝。適度に涼しい、ちょうど良い冷え具合。
 土曜日だけれど、出勤。職場とは直接関係なのだが、毎年この時期、ある講座を頼まれていて、1時間30分の講義を2回繰り返して行っている。僕が教える分野において、専門知識を持っていない人達が多い中、薄く広い話をするのではなく、「これはくらいは分野に関わらず知っておこう」という部分に関して重点を置く説明をしている。勝手な推測では、講座内容を半分程度理解している人は全体の5割、ほぼすべてを理解している人は全体の3割程度だろう、という分析。もう少し理解度が上がってしかるべきだとは思うけれど、これ以上難易度を下げるつもりもない。
 講座が終わった後は、力を必要とする工作のような作業を少し。それをやっているうちに、指先の感触がベタつくようになってきた。特に気にかけることもなく続けると、さらに違和感が増し たので試しに見てみたら、指先の一部が、かなり深く切れていた。痛みもなく、血がほとんど出ていないのが不思議。夕方頃に帰宅。
 最近の若い人は、車を買わなくなったようだ。僕の世代だと、自動車免許を取得して車を乗り回す、というのが、大人への第一歩だと感じるところがあって、それまでの夢の1つだった。テレビドラマでそのような部分を見ると憧れたし、バスの中から比較的若い人が運転している姿を見ると、羨ましく思った。車の雑誌もかなり買ったと思うし、父親に頼んで、カタログも何冊も貰っては、何度も眺め見たものだ。しかし、これは一過性の流行というものではなく、そのような世代だったし文化だった。恐らく、そう簡単には手に入らないもの、簡単に実現しないものへの、欲求の現れだったのだと散見される。
 今は、その気になれば手に入る時代になったし、もっと、自分の周囲の物事に対して、手間や時間をかけるようになった。だから、教習所に通って免許は取得するけれど、自分で自分の車を運転するという、いわば、社会的な動作には興味を抱かなくなった。車のローンよりもケータイになり、運転よりもネットになった。待たされることなく、すぐに達成されるものが増える反面、渋滞して待たされる運転にも、やはり興味がなくなったのかもしれない。
 遠くへの憧れは、近くの現実、それをこなすことへと変わったのだろう。


5月24日(日曜日)
 体感は、視覚も温感も、昨日の朝とほぼ同じ。ただ、今朝のほうが、少しだけ暗いかもしれない。空気は濁っているし、陰影も少なくて、見ていてもあまり面白くない光景の朝。
 やはり今日も出勤。日曜日によくある、一種の営業的な仕事をこなした。夕方頃帰宅。
 夜は、映画を1本だけ観た。面白いと感じる映画だったけれど、タイトルは知らない。その後は、Macintoshでいろいろな音楽を聴いた。外は断続的にやや強い雨が降っている。たまに遠くの雷の音が聞こえていたが、9時44分頃に、すぐ近くに落雷した。地響きがするほどの光と音。ただ、この1回だけで、後は、再び遠くの方から僅かに聞こえるだけ。遠慮しているのかしていないのか、消極的なのかそうでないのか、よく解らない雷だった。
 例のインフルエンザは、国内の感染者が増えると同時に、冷静沈着な方向への導きが始まった。遠くの出来事だったものがリアルになって、今までの大げさな対処や過剰な報道と実際のとのギャップを、認識せざるを得ない状況になったからだろう。僕は、政府のとった過度な対策には賛成だし、むしろ、そうあるべきたとも思う。しかし、それに、マスコミの過剰な報道が加わると、幾何級数的に、騒ぎは大きくなる。みずから、騒いで当然だ、という流れに導き、そしてみずから騒ぐ、という構図。やらせ、という名の演出と、何が違うだろうか。