推し量る末の発言

into-the-sky2009-03-18


3月5日
 朝から晴れ。気温は低くて、細かく丁寧に作られた霜が、隣家の屋根を薄く覆っている。明るい朝は、だいぶ早くなった。
 出勤して、午前中は、ややイレギュラな会議。昼食を挟んでの午後は、月に一度の定例の会議。その後は、この時期特有の仕事。それを夕方に終えて、名古屋から久しぶりに上京したN氏と、職場の若い人達と共に、会合へ。自分よりも若い人との会合は、年に数回程度。大抵は、僕が一番年下になる。12時に帰宅。独り、のんびりと考えごとをする時間が、ほとんどなかった木曜日。
 
 ここ1.2年くらいで、マスクをしている人が増えた。イメージ的には、以前の5倍くらい。しかも夏の暑い時期以外は、いつも誰かがしているように観察される。昔に比べて花粉の影響が強くなっている、という違いはあるのだけれど、花粉症の人でもしない人はしないし、している人もしていない人も、同じくらいクシャミをしている。また、風邪をひいている人がマスクをしていても、やはり、風邪は順調ともいえるくらいに、周囲の人にうつる。
 マスクをしている人を見ると、鼻や顎に大きな隙間ができている人も少なくない。あまり意味がないように観察される。風邪の菌は、湿度と関係があるが、では、一年中、空気が乾燥している国の人達は、やはり一年中マスクなのだろうか。気休めというか流行というか、誤解というか間違えというか、そんな気がするが、どうなのだろう。いわゆる先進国で、日本ほどマスク人口が多い国は、他にはないだろう。
 僕は、僕は、年一度の職場の大掃除をする時にしかしない。もともと疑い深い性格なので、マスクの効果をあまり信じられないからだし、今までしなかったのだから、これからもしなくて問題ない、という、軽い短絡的な考えによるもの。僕も、毎日いろいろなビタミン剤を飲み、遠赤外線の電気ストープにあたり、マイナスイオンを放出する清浄器と共に暮らせば、もっと健康的な日々を過ごせるのかもしれない。



3月6日
 雨の金曜日。先日の雪とは違って、春の雨だと感じられる。駅までの途中にある芝生のゲレンデは、まだ、黄色く硬い。一応、春だし3月だけれど、今までの例年の、どの季節にも当てはまらないような天候。特に四季が明瞭である日本の場合、今までのような、夏らしい冬らしい天候の頻出度は、今後、さらに減っていくだろう。
 午前中は、ほとんど頭を使わないで、PCに向かっての仕事。午後は、職場に居る若い人に、いろいろと話をしたり説明をしたり。話をしていて、ここ数年で感じるようになったことは、随分と早口になったな、ということ。単位時間あたりで考えると、相対的に多言になった、ということを意味しているようだ。歳をとると共に、考え方は穏やかになり、気持ちも大きく高揚しなくなったと自覚している反面、アウトプットの量は増えたみたいだ。発言の量が発言力とはならないし、沢山のアウトプットが沢山の仕事をこなす、ということにもならない。そもそも、お喋りもあまり好きではないし。いずれにしても、極端にならないように、気をつけよう。
 一般的には、多言な人ほど得をする、と考えれる傾向にはある。たとえば、小学校の学級会などでも、発言をする生徒が優秀だ、というイメージが植え付けられるし、就職活動時のディスカッションでも、多言な人の方が目立つし、何も発言しない人よりかは、した人の方が採用されるケースが多いようだ。しかし、学校では、「人の気持ちを考えよう」と掲げられているし、一方、社会では、「言われなくてもできる人間」を求めていたりする。すると、発言することは、誰の何のためなのか、と不思議に感じる。もちろん、ディスカッションのすべてに意味がない、とも考えていないけれど、言われるほど大した意味もないのだろうな、とは思う。
 僕は、「発言すること」と、「推し量ること」が、ほぼ同列で語られるべきだと感じる。推し量ることなく、発言するのだったら、無用な時間を作らないためにも、黙って静かにしていたほうが、地球にエコで、自然に優しいだろう。ほとんどの場合、唯一の自分だけの意見というものは、大抵、多数の人が考えているようなこと、だからだ。



3月7日
 起きた頃は雲が多かったけれど、太陽が昇ると共に、青空の面積が増えた。空気の透明度が高く、陽射しは白く鋭い。
 休みの土曜日。今日も例によって映画を観た。1964年製作の邦画。1948年に実際に起きた事件を元に作られたもの。この年代の映画は、メッセージや社会風刺という穏やかなものではなく、世の中への不満や政治への揶揄を、直接ノンフィクションで描くようなドキュメンタリー映画が多い。もちろん、現代のいわゆるアングラものではなく、有名な俳優がキャストに名を連ねていたり、著名な作家がその事件の解決を支援したり、と、世の中から乖離することなく、大きなスケールでの表立った作品である。こういった作風の映画は、もう何年も作られていない。作品もアングラで上映館もアングラの様相を呈していて、誰が見に来るのだろう、と思ってしまうような作品は、あるのかもしれないけれど。
 話のニュアンスは少し変わるけれど、何度もここに書いているように、僕は天の邪鬼だし、天秤計りにイチゴを載せた場合の0.4グラムくらいの差で、どちらかというとアンチファシズムの傾向にある。けれど、「左」とか反体勢などという意識はない。消費税賛成派だし、給付金反対である。とにかく、決めるのも決められるのも、拘るのもあるいは拘っていると感じられることも好きではない。政治は普遍的でないし、世論も定常的でない中で、どちらかに属すると決めた段階で、もう自分の意見ではなくなると思うからだ。こう書くと、大げさに感じるし、精神だの思想だのを、日常的に考えているように見られるかもしれないが、実際は、それほど考えているわけではない。

 昼過ぎは、散歩に出た。およそ、1時間20分。途中の親水公園には、望遠レンズをつけたカメラマンが何人もいた。レンズの先を見ると、遠くの木に二羽の鳥がとまっていた。
 野鳥にレンズを向けている人を見る度に、凄いなと思う。自分には真似ができない。動物を撮るということは、もの凄く時間も手間もかかるし、鳥は、比較的小さいうえに動きが速いので、フレームに収めるのが難しいからだ。形に関わらず、カメラという道具を使い始めて久しいが、その方面には、興味が向かない。

狭い、というより・・

into-the-sky2009-03-15


3月2日
 久しぶりに、朝から快晴。風も強く、空気の透明度も高い。しばらく見えなかった関東山地の山々も、随分と綺麗に見えた。この前の雪で、所々、白く見える。気温は目立って低くはないけれど、風が強い分、寒い朝。日中も、風は収まらず。
 枯れた枝を落として栄養剤をあげたら、俄然元気になった例の観葉植物は、最近、随分と大きな葉を出している。葉の大きさは前と比べておよそ3倍、枚数は、およそ10倍。色も、右に4本分くらい濃い絵の具を使って描いたポスターの配色のようだ。別の植物に生まれ変わったとさえ感じる。「そんなに無理しなくてもいいよ」と声をかけておいた。この揚々ぶりにすっかり気を良くしたので(僕が)、使っていなかった鉢に、かすみ草の種を植えてみた。種を蒔くなんて、小学生の朝顔の栽培以来だろうと思う。これで成功すると、栽培がヤミツキになるかもしれない。これ以上、気を良くしないように、自重しよう。
 出勤して、例の、この時期特有の仕事を進めた。といっても、僕は代表者なので、精力的に取り組んではいない。大まかな計画を立てて、準備を手伝って、そして、作業を少し手伝うくらい。基本的にはセッカチな性格なので、スムーズに早く進むように、僅かな指示を出す、というスタンス。自分がすべてをやった方が早い、という仕事でなければ、むしろ、意欲的に仕事を振って、自分は観察役に徹するわけである。偉そうに書いているけれど、まあ、つまりは、たいした事はしていない、ということ。当初の予定よりは、1週間ほど早く終わるだろう。
 明日の予報が、再び雨から雪に変わった。前日の予報だから、かなり精度は高いだろう。硬い寒さの一日だった。



3月3日
 多少の隙間はあるが、寒々しい曇り。昨日の強い風は止んでいる。気温は0.8℃。植物の春に向けた動きも、小休止、といったところか。都心部でも昼頃からは、降雪の予報がでている。しかし、雨雲レーダーを見ると、近畿地方に背の低そうな弱い雪雲がややまばらにある程度だから、もう少し降り出しは遅れるような気がする。
 親の家に行っての朝食。ひなまつりだったらしく、ちらし寿司(詳細解らず)だった。全般的に季節や慣しなどのセレモニーには疎い家族だけれど、折に触れて、少々の反応はある。僕は、まったく感心がないけれど。
 出勤して、今日もこの時期特有の仕事をしたり、各所各人とちょっとした相談をしたり。大きな仕事よりも、このような細々とした仕事を多くこなしたほうが、仕事をしている気分になる。頭を切り替える頻度が高くなるせいかもしれない。もちろん、ただの気のせいである。
 昼過ぎから、何度か雨雲レーダーを見た。今回も、西部の山地で塞き止められているようで、南方から回り込んで平野に入ってこようとする雪雲もあったけれど、伊豆半島の付け根の辺りで、滞っていたようだ。あるいは、山を越えても、空気が乾燥しているために、雪が地上付近に降りてくる前に、昇華してしまっているのかもしれない。いずれにしても、昼を過ぎても2時を過ぎても、何も降らず。この時期特有の仕事に集中。進捗率は、60パーセント。合間を縫って、職場に居る若い人とあるプロジェクトに関わる話。どちらかといえば、こちらが相談にのってもらったような構図。
 夕方5時前に降り出した雨は、退勤する直前にミゾレに変わった。駅までの道、降りてくるものは、ミゾレ・雨・雪混じりと、目まぐるしく、何度も入れ替わった。自宅の周辺は、既に、完全な、雪景色だった。



3月4日
 雪はすでに止んでいて、曇り空の朝、水曜日。木々の小枝にも雪が付き、一通り、外に見えるものの大半は白くなっているけれど、白さには勢いがない。一応、雪をまぶしてみました、みたいな感じ。積雪3センチくらい。
 昨夜の帰宅途中は、都心部の駅から調布駅までは雨混じりのミゾレに、時折雪が一緒になって落ちてくる、という程度だった。自宅に近づくにつれ、ミゾレの中の雨がなくなり雪の量が増えた。そして、一駅過ぎて、自宅の最寄り駅に着いたら、完全な雪になっていた。もう、車や芝生、そして家々の屋根には雪が積もりだしていた。1時間くらい早く、雪に変わっていたのだろう。
 そして今朝、電車の中から窓の外を眺めていたら、自宅近くの駅から僅か2分ほど乗った所で、それまで斜面に見えていた雪はなくなり、1つ都心よりの駅を発車し少し進むと、屋根上の雪も完全に見えなくなった。都心部も含めて雪になったのだから、やはり、ミゾレから完全な雪に変わった時間の違いによるものだろう。
 昼過ぎまでは、職場でのいろいろな仕事。午後は、上司のS氏に誘われ、ある展示会へ。ちょうど、1年前の同じ時期に、2人で訪れた場所。のんびりと世間話を交わしながら、現地に着いた。一通り、見たりプレゼンテーションに参加したりして、夕方過ぎに目黒に移動し、S氏と共に数名の会合に参加した。僕は昨年から参加し始めて、今回で5回目。気がつけば、結構な頻度である。
 僕の左隣に座っている人から、「この前、やり手の、凄いVEと仕事をして・・・」という話を伺っていたら、僕の前職の会社名が突然出てきた。驚いてその人の氏名を聞き返すと、一緒に仕事をしていた人だった。僕が、その旨を伝えると、今度は右側に座っている人から、「私は、その会社の某氏と友達なんですよ」と、さらに違う人の氏名がでてきた。頻繁に言われていることではあるけれど、やはり、この業界は、狭い、と感じる。とはいえ、広いとか狭いではなく、単純に、就業人口が少ない、ということなのだろう。放送する窓口に関係なく、クロスオーバーしていることが多い、ということも影響している。間接的には、ほどんとの人同士が、関係者であり知人であるとしても、そう間違いではないだろう。

むしろメッセージ性ではない

into-the-sky2009-03-14


2月27日
 朝から小雨の金曜日。気温は、3.6℃。まだ雪になる温度ではない。
 都内の風向きを見ると、弱い北北西の風とやや強い北東の風が吹いている。雨も弱いから低気圧自体の影響下にはあまり入っていないようだ。関東周辺の気温の分布を見ると、長野から群馬にかけての山沿いと東北地方に0℃以下の冷気があるから、低気圧が接近して風が強くなると、気温を下げて雪になるだろう。雨粒が大きくなったら、雪に変わる兆候かと想像。
 8時過ぎから、徐々に雨が強くなってきた。職場に着いた9時前には、融けた氷の粒が、時折雨に混じるようになり、10時頃から、雪が混じりだした。 その後も、完全に雪になったりミゾレ混じりになったりの繰り返し。職場は都心部にあるので、郊外や内陸側では、もう少し綺麗な雪になっているのだろう。昼前の気温が、1.2℃。雨際の雪だから、低気圧の中心が通る頃には、上空に暖気が刺さり、関東南部の大半は雨に変わる筈。
 昨日から引き続いていろいろな仕事のほぼ同時進行。ただし、終える予定だった素材のプリント作業は、機器とデータのトラブルのため、今日は終わらなかった。夜に入って、以前職場にいた若い人3名と会合。相変わらず、いつもの焼き鳥屋。その中の1人とは、3年ぶりの会話。出るところは出て、引っ込むところは引っ込んだな、という印象。もちろん、その人の考え方が、である。自信がつく、ということは、力のボリュームが増すということであって、周囲から見て、それが必ずしも、常に外向きに作用するものとは限らないのだ。
 夜 中の1時前に帰宅。芝生や植え込みや車の上に、雪が僅かに残っていた。やはり都心部よりは、雪の時間が長かったみたい。
 来週、東京に着いてた雪のマークは、2つとも雨のマークに変わった。雪よりも雨の可能性が増えたのだろう。おそらく、今回と同じ南岸低気圧だろうから、発達具合や通るコースによっては、雪になる筈。気象庁の一ヶ月予報を見て、もう冬は完全に終わったのだな、と思ったら、その予報自体が訂正されるほどの低温の傾向になっている。最初の予報では、2月の終わりから3月の初めにかけて、かなり暖かくなる、というものだったのだが。


2月28日
 朝の青空を久しく見ていない。週間予報を見ても曇りと雨のマークばかり。マークだけを見ると菜種梅雨のような天候。例年だと3月の後半にやってくるだろうから、3週間くらい季節が先に進んでいるようなイメージ。
 2年前に職場に居た若い人から、職場に来訪するという連絡がきたので、予定より早めに出勤。まだ22歳らしいけれど、昨年の4月に結婚していたらしい。ちなみにまだ、子供はいないとのこと。入社した仕事仲間と結婚したらしく、都内の一軒家に住んでいる、と話をしていた。順風満帆な人が居るものだな、と思った。もちろん、自分と比較して、という話。あ、そうか、自分と比較すると、大半の人は、順風満帆なのか(遠望)。午後は、ちょっとした営業活動的な仕事をこなし、帰宅。
アカデミー賞をとった映画を見てきた」という報告を母親から受けた。きっと多客で待ったり並んだりしていただろう。もの凄いパワーを感じる。僕は、そもそも受賞作品にも賞そのものにも感心がないから見に行こうとは思わないけれど、そのようなパワーもない。「さすが、受賞した作品だ」と、感想をおっしゃっていた。
 この映画に対しては、ネットでもたまに見るテレビでも、「メッセージ性がある」「世界に向けてのメッセージだ」というような感想を、もの凄く多く聞く。それが高く評価された要因だろう、という意見が体勢をしめているわけである。しかし、僕は、半年で200本以上の映画を観たけれど、メッセージ性と言われれば、それがない映画は1つもなかった。フィクション、つまり物語である以上、どんな映画にも何らかのメッセージは含まれていて当然だからだろう。むしろ、メッセージ性を持たせない映画を作るほうが、難しいとさえ感じる。映画や映像制作の目的は、メッセージの伝達としては効率の良い、活字や本と比べて、いかにそれ以外の意味や魅力を持たせるか、ということだと思う。今回の受賞作品に関しても、どちらかといえば、そうではない部分に魅力や面白さがあったのではないか、と思うが、いかがだろうか。


3月1日
 休日の日曜日。悪くもないけれど良くもない、ずっと外を眺めていれば多少の陽射しも見られる、という程度の天候。空気や冷えたまま。
 朝食後は映画を観た。典型的なハリウッドもの、だった。PG-12指定だったから、手で画面を隠す心の準備をしていたけれど、予想ほどキツいシーンはなかった。何度か書いているけれど、本物の血も、リアルな作り物の血も、僕は、基本的に見ることができない。怪我人を介抱したり手当をしたりと、英雄のような人もいるようだけれど、僕には、いっさい無理。遭遇したら一目散に逃げると思う。
 簡単な掃除をして、午後は、母親と図書館へ。先月の誕生日で、図書館カードの有効期限がきれていたので、本を選ぶ前に、その更新手続き。なぜ、有効期限が1年なのかは不思議。取得するのが大変な資格とその免状は、大抵一生ものだったりするが、少し簡単な自動車免許になると3年から5年が有効期限だし、誰でも得られる図書館カードは期限が僅か1年しかないわけである。無駄なことをしていないだろうか。
 選び終わった後、やはり2月に誕生日がある母親も更新する必要があった。必要書類に記入して受付に持っていったら、「住所を証明できる免許状や保険証が必要です」と言われ、持っていない母親は、更新ができなかった。幸い、僕のカードで借りられる冊数だったので、それで借りることにした。
 しかし、なぜ新規申し込みでもなく、カードをなくしたわけでもないのに、住所の証明が必要なのだろうか。PCによる無人の貸出しシステムもあるくらいだし、現に今回のように、係員が居る前であるにも関わらず、他人のカードを借用することも可能なのに。カードを偽造してまで、本を借りるという人がいるのか。有効期限内であれば、誰のカードでも使える、けれどもしかし、自分のカードを更新するときには、住所を証明しなくてはならないという、非常に奇々怪々なシステムには、呆れてものも言えない。ありていにいえば、これがお役所仕事、なのだろう。専門書を4冊借りて帰宅。

顔認識の感心

into-the-sky2009-03-10


2月24日
 それほど暗くはない曇り空。朝の気温は3.4℃だったから、曇っている割には寒い、火曜日。6時前にベッドを出て、エスプレッソマシーンに電源を入れて・・といういつもの朝。
結局、あたかも、二日間に渡って寝ないで考えたように、あっさりと直感的に、iLife09をアマゾンで注文した。今晩には届くだろう。
 いつもと同じように、一旦出勤。スタンバイをして、車で30分ほどの現地に向かった。通用口から入り、搬入用のエレベーターで13階へ。2年前にも仕事で来た場所。予定通りスタンバイを終えて、12時過ぎに開場。終了は夕方6時頃。
 8時過ぎに帰宅し、早速iLife09の新しいiPhotoの顔認識を試してみた。まず最初に、iPhotoの中の写真データを自動的に参照し、その中から、人の顔が入っている写真の認識が行われる。もちろん、すべての写真をチェックするので、1時間くらいかかった。その後、任意の写真で「名前をつける」というボタンをクリックすると、顔にターゲットがかかので、名前を入力する。すると、その人だと推測される写真が自動的にサムネイルでリストアップされて、正解か不正解かを手動で設定していく、という作業。確認はワンクリックで済むので手間ではない。何枚かを指定して、再びリストアップさせると、学習機能が働いて、より自動認識の正確度が増していく。似たような顔を間違ってリストアップすることもあるけれど、当人は基本的にはずさない。撮影のサイズや顔の向き、色や光線のあたり具合といった不確定要素に関わらず、当人をしっかりと選び出す。驚いたのは、50人くらいが写る集合写真の中の、小さな横顔から、当人を探し当てたこと。
 たとえば僕は、集合写真を拡大して、1人ずつ誰が誰なのか、という見方をしないので、そう観点考えると、僕より明らかに分解能は高い。だから、リストアップされた写真を見ると、「あ、この写真のこの顔も、この人だったんだ」と感心することが頻繁に起こる。最初のバージョンのiPhotoから、この機能を完成させるべくずっと研究を重ねてきた、と感じられるような完成度だと思う。むしろ、アメリカの警察などのいわゆる情報収集機関は、このようなモンタージュ技術をかなり前から使っていたのだな、と、想像が飛躍する。


2月25日
 ベッドから出たときは、曇天。気温は、ほぼ昨日を同じくらい。
 雨雲レーダーを見ると、西から関東山地の手前までまとまった雨雲が進んできていたが、3時間くらい、ずっと同じ位置から東進していないように見える。雨雲が山で塞き止められていたようだ。しかし、7時を過ぎると、山脈を南北に回り込むように入ってきた雨雲が、神奈川や群馬に広がり始めた。こうなると、南北に分かれた雨雲の間も、潜在的に雨を降らせる要素が届いている、ということ。家を出ることに、レーダーエコーには映らないような細かい雨が降り始めた。
 明後日の天気予報に雪が入った。低気圧が、関東平野部に雪を降らせやすいコースを通過するということが定まったのだろう。2日前の雪の可能性を含んだ予報は比較的的中率も高いので、降る量や時間を考えなければ、まあ、一応降るのだろうなと想像される。
 今日も、昨日と同じ現場で同じ仕事。ただし、終わる時間は昨日よりかなり早め。夕方頃には職場に戻り、すぐに素材のプリント作業をした。3時間くらいかけたが、納品までの進捗率は20パーセントほど。土曜日には完成するだろう。
 放送機器全般にデジタル化が進み、それはほぼ終了しているといって良いのだが、録画形態から完成までは、何年も前から過渡期の状態が続いている。つまり、「どのデジタルにするか」という選択肢が幅広く、定まっていないからだ。アナログからデジタルへの移行が始まった頃は、単純に信号の符号化という変化だったけれど、圧縮技術が上がると、フォーマットの選択肢が増えていった。しかも、ベースにあるデジタルプロセスによって、どの方式の画質も大差がないので、以前と比べて境界条件が曖昧になった、ということである。
ただ、過渡期の不便さとは、選択の困難ではなく、どちらかといえば、どの手段だったら作業が早く終わるのか、という時間的な観念によるものだ。昔は、最短でもリアルタイムかそれ以上の時間を要していたのが、手段によっては、かなり短縮できるようになった。ただ、選択肢によってはその短縮率を上げられないことも多く、そこに不満という名の煩雑さや面倒さが生じる。
 いずれにしても、商業主義における時間とは、その効率を決める大きな要素だ。だから、どの方式でも時間を必要としないものが選択されていくことは、明らかであって、相対的に時間がかかるフォーマットやメカニズムは、淘汰されていくに違いないわけである。


2月26日
 引き続き、曇りの朝。窓からの見た目はまったく変わらないけれど、気温は昨日より4℃ほど高い。仕事を休む予定でいたけれど、清水の舞台から飛び降りるつもりで、出勤した。細々とした仕事を前倒しして消化するため。
 出勤して、この時期特有の仕事や昨日の続きや、業者への対応や定常的な仕事など、5窓くらいのマルチタスク。仕事の特性にもよるけれど、僕の場合、1つずつ完成させて次の仕事に進むのではなく、ほぼ同時に少しずつ手をつけていって、どれも少しずつ進捗率を上げていく、という手法をとる。基本的には飽きやすい質なので、この方式が取組みやすく進めやすいからだ。そういうこともあって、このような状況の時、大抵、机の上がいろいろな物で一杯になる。ただし、積み上げずに平置き。効率が悪くなる、ぎりぎりのラインを狙っているつもり。
 今年の1月1日から、およそ52000字を書いた。相変わらず、書き過ぎの傾向だと観察される。一旦投稿を止めて再会してから、4月で1年になるが、この期間のベースは、一ヶ月に概ね28000字。年間では、約336000字、原稿用紙840枚分を書く計算になる。思ったり考えたりしていることの1/3も、ここに書いていないし、仕事もその周囲の環境に関することも具体的には書かない。これらのすべて書けば、今の5倍くらいの量にはなるだろうな、と想像。まあ、絶対にそういうふうにはならないが。
 最近、「ブログ炎上」みたいな言葉を聞くことが増えた。拙い発想というか命名だと感じたり、愚かしい表現も一般化するのだな、と思ったり。そのような表現も、その事自体も、とにかく微笑ましい光景である。その炎上している状態を僕はまったく見たことがないけれど、ブログを書いた本人ではなく、それを見ている人が、燃料と火種を持ってくる、そういうメカニズムなのだろうな、と想像。いつの時代もどんな集合にも、必ず一定の割合でクレーマーが存在するわけである。
 気温は日中にかけて少しずつ下がっている。明日の予報は、引き続き、「雨か雪」。積雪はほとんどないだろう。

一人前になった後で

into-the-sky2009-03-09


2月21日
 それなりに冷え込んだ土曜日。日中も10℃に届かず寒い。桜の木の枝は、だいぶ煩くなってきた。小枝の先には、固まりも見える。朝食後は、休日のいつものように、コーヒーを淹れて映画と、「刑事コロンボ」を観た。役柄ではない、コロンボを演じるピータ・フォーク自身の目に鋭さを感じる。午後もさらに映画を1本。ウォルト・ディズニー社のタイトルが最初に出てきたが、実写でカーチェイスが場面に登場するようなアクションもののテイストで、らしくないな、と思っていたら、最後は、やはりそれらしい展開だった。
 夕方6時前に家を出て、2ヶ月ぶりの美容室へ。この時間にしては珍しく多客だった。眠くなりそうだったので(僕が)「美容室の最近(アシスタントからスタイリストになるまで)」というテーマで、担当の美容師の方に話しかけた。経験的に、いわゆる下積みの時期のことや、その道にデビュするときの流れのようなものは、だいたい想像できるけれど、実際に話を聞くと、予想より大変で苦労が多い、ということが解った。およそ3年間のアシスタントがある、とのこと。特に美容師の業種に関してだけではなくて、どの分野もアシスタントの期間は長過ぎると感じる。
 僕の仕事も、アシスタントの期間があったけれど、それが終わって独り立ちしてすぐに、アシスタントの時期のことは、あまり関係がなかったな、と思った。見ていたつもりのものを見ていなかったな、と感じたし、意外に上手くできたな、と感じたこともあった。もちろん、多少はその期間の経験が役に立ったとは散見されるわけなのだけれど、そのほとんどは、結果論であって、独り立ちしたからこそ、自明となったことである。
 下積みの期間のすべてが無駄だとは思わない。業種によって違いがあるし、最低限のテクニックの取得に、絶対的な時間がかかる場合もあるだろう。けれど、順番や期間や回数などと単純に語られたり判断されたりする物ではない。実際にやりながら学んだほうが効率的だし、一人前になってから、いわゆるアシスタント的な業務に携わったほうが、理にかなっている筈だ。まず何より、最も旺盛な時期に、大きく重たい経験させた方が、身に付くのも早い、ということは確かである。



2月22日
 風が弱く、放射冷却が強まった、氷点下の朝。それでも、昼頃には南よりの風が吹いて、気持ちよく暖かい。向かいの家のバセット氏(犬です)は、陽なたで横倒し。陽射しがある日は、ほぼ毎回、同じ位置で、横倒しになっている。そういえば、今の家になって畳部屋がないし、ソファも陽にあたらない位置に置いてあるので、横倒しで昼寝はもう何年もしていない。夕方前には雲に覆われたけれど、暖かいまま。メジロも、ツグミも、コゲラも、ハクセキレイも、見え隠れする。
 朝食後は、映画を1本と「刑事コロンボ」を観た。今回のNHKコロンボは、HDの16:9だったから、新しいシリーズだったのかもしれない。1967年から2003年まで、69作品が制作されたが、NHKもCSも、なぜが、完成順というか当時の制作順にはならずに、アットランダムである。まあ、まったく気にならないが。ちなみにNHKは68本をHDで放送する。
 先日一度だけコロンボについて書かれている個人のブログのようなものを見た。倒叙形だし、しっかりと読んでいるわけではないので、ネタバレが書かれていてもそれほど気にならない。ただ、サイトによっては、たとえば「この回の話は、浅はかで展開が強引」とか「犯人の特定方法に必然性がない」などと書かれているものもある。まあ、個人の自由なので、批判的な意見は持たないけれど、そういう指摘をする人達の希望通りに脚本を書いて構成を考えると、恐らく、すべて同じストーリ展開になるのだろうな、とは思う。そうなると、その当人達からは「マンネリでつまらない」と指摘されるのだろうが・・・。
 夕食後は、映画を1本。タイトルだけで録画を決めたもの。大統領がテーマ。けれど、ありがちなシリアスなものではなく、大統領の恋愛にまつわるストーリー。常套的表現だと、大統領自身とその周囲の人間模様がテーマ。面白い映画だったけれど、途中、カット毎でもリップシンクがとれていない部分があった。サラウンドシステムに繋げているから僅かながら音が遅延しているにも関わらず、映像がさらに遅れていた。作品に原因があるのか放送上の問題か、ブルーレイなのかよく解らず。



2月23日
 雨の月曜日。自宅の周辺はまだ弱い雨だが、レーダーを見ると、積極的な雨雲が控えている。もちろん、雪が降るような硬い寒さはない。職場に着く頃には、弱い雨。夕方までは弱い雨が降っていた。ちょっとした、早春の長雨。
 今日でなければならない、という仕事はなかったけれど、明日と明後日の外の仕事の要件をメールで問い合わせしていたので、ほぼ、そのためだけに出勤。メール自体は、自宅でも問題ないが、返信の内容によっては、職場で準備をしなければならないからだ。今回は、職場にきた仕事だけれど、アルバイトというかフリーというか、完全に外の仕事。今後は、このようなスタイルの仕事が少しずつ増えていくだろう。この時期恒例の仕事に関して、各人にメールした。26日にはスタート。
 帰宅して映画を1本観た。「刑事コロンボ」は、ハードディスクの中にあって、まだ見ていないものが、多数。誠に嬉しい状態である。
 先日、見た映画の本数が解らなくなったと書いたけれど、昨年の5月にブルーレイディスクレコーダーを購入してから、録画したディスクの数は、110枚を超えていた。半分以上のディスクには、2作品を収録しているし、中には4作品のものもあるし、一度観てそのまま消去したものもある。正確には解らないが、少なくとも260作品以上は見た計算になるか。時間に換算すると、およそ450時間。このペースは、少なくとも今年の10月頃までは変わらないだろう。
 この10ヶ月くらいの間で観た映画は、途中で見るのを止めたものが1つと、見終わって面白くないなと感じたものが1つだけあっただけで、他はどれも、概ね面白いと思える作品だった。ジャンルも特に拘りはなく、ディズニー・ピクサーのアニメも観るし、邦画も観る。いわゆる感動映画も観るけれど、ただ暗い映画はあまり観ないようにしている。そもそも、暗い映画のほうが作るのが難しいということもあって、どうも無理をして暗くしているような、暗さのごった煮のように感じてしまうからだ。「世知辛い世の中です」「現代は、こんなに荒んでいます」と言わんばかりだし。

常識をもつな

into-the-sky2009-03-06


2月18日
 久しぶりに硬い寒さの水曜日。気温は氷点下1.7℃。先週の暖かい日には、職場の近くに手のひらと同じくらいの大きさのカエルが沢山居たけれど、また、冬眠に戻ったのではないだろうか。天気は今日も晴れ。降灰してから、まだまとまった雨が降っていない。車の上も隣家の屋根も、相変わらず、灰色の粉が残っている。「あ、あれから、一年経ったのだな」と実感する日。
 今日明日と、ちょっとした仕事があって、朝に出勤してからは、ずっと地下の人だった。曲違いでほぼ同じようなことを7回。夕方過ぎに今日の分は終了。みずからその中に関わったり、少し離れて全体を見たり、という仕事。
その後は、偶然僕の職場に来た、グループ内の他の職場のスタッフI氏と2人で、焼き鳥屋へ。各方面のいろいろな話。やはり同性で上司で2.3人での会合が最も好きだ。ゆっくりと沢山の話ができる。ただ、もう何度も同じような機会はあるし、行動を共にすることも多いわけだから、実際には、新しい何かや別の考えを聞く、というよりかは、確認作業に近いだろう。
 つぶさに観察していると新しい発見がある、とは頻繁に言われるけれど、今までに無かったり感じなかったりした何か、というふうな、自分に新しく加わるような直接的な要素ではなく、むしろ、どうしてそうなのか、という疑問や不理解な道理であることが多い。つまり、今まで知らなかったことに気がつく、あるいは、今までどうしてそれに気がつかなかったのだろうと思う、そういう要素である。
 いやしかし、新しいものがまったく見えていないわけではない。ありていにいえば、必ず見ている筈だ。ただ長く生きていくと、それを新しいもの、今までになかったことだとは感じにくくなる。従前の範疇に取り込むけれど、新規のフォルダにはならない。これが「歳をとると頭が硬くなる」という所以だしメカニズムだ。これはごく自然な衰えの一種である。けれど、自分に解らないことがある、未知の新しい何かがある、と想像することによって、それらのある程度は、回避できる筈である。すなわちこれが、好奇心というものだ。



2月19日
 やや寒い朝。天気も良い。経験則だが、夜景がもの凄く綺麗に見える日の次の朝は、空気の透明度は大抵悪くなる。シンチレーションによって、細かく揺れている光の粒は、風前の灯、である。
 今日も、昨日と同じ仕事。7回同じことを繰り返す日。職場では、あるテレビドラマのロケーション2つに場所貸しをしていて、前の通りには、ロケ車の行列ができていたり、スタッフや出演者が大勢行き来したり、それに地下のスタッフや出演者も加わって、一時は、結構な騒ぎになっていた。さすがに、職場の特性上、大勢の野次馬が邪魔をすることはないし、いきなり何かを頼まれても、大げさに対応することもない。これが撮影場所として好まれる理由かもしれない。いずれにしても、ロケ隊を邪魔だな、と思ったり、こちらが邪魔をしていないか、と思ったり、気を遣えよと思ったり、気を遣ったり、となる。結構、メジャなドラマらしいが、タイトルは書けない。
 社会的な常識は、その言葉通りに、常に求められる。賢明な人や冷静でいる人のことを常識人だという。そうでなければならない、そう居たいという理想から生まれる発想なのだろう。しかし、「その環境での常識をもつ」ということは、「朱に交わう」ということと、ほぼ同義ではないか、と散見される。たとえば、2つの常識があって、それらの中に互いに相反する要素が含まれれば、一方の常識をもつことによって、一方の常識の範囲から外れることもあるだろう。つまり、これが「赤くなった」という状態である。こうなると、常識をもつことが良いことだ、とは、単純に解釈できなくなる。そう考えれば、「どんな環境でも、常識をもつな」とか「どの常識も多くはもたないようにしよう」が適切な言い方かもしれない。
 けれどもしかし、赤くなって初めて朱に交わったことが解る、ということも多いから、注意が必要である。
 夜9時過ぎに帰宅。「夜は雪かもしれない」という予報だったが、自宅周囲の温度は、7.4℃もあった。少しして雨が降り出して、3℃くらい急に低下したけれど、房総半島には既に南よりの暖かい風が入っているので、雪にはならないだろう。


2月20日
 金曜日で、雨の朝。気温は1.2℃。地表の気温としては雪でも不思議ではないが、上空に暖気が入っているのだろう。大島から相模湾にかけて、やはり南よりの風が入っているのが、その証拠である。地表付近は北よりの風が吹いているが、0℃を割っても雪にはならないパターン。朝の予報では、東京の最高気温が17℃くらいとなっているが、果たしてそれほど上がるかどうか。房総半島の南部は、既に15℃以上あるけれど。
 今日は、特に大きな仕事がない日。来週の撮影の準備をしたり、そのためのメールをしたりという少々の雑務。比較的早い夜に帰宅。
 ネットで今日の天候を調べたら、東京ではやはり予報ほど上がらず、夕方に10℃を少し超えただけだったし、自宅の周辺では、8℃とかなり低かった。まとまった南風の流入もなく、上空の暖気の影響をあまり受けなかったのだろう。朝方、雪になっていた関東北部の群馬の平野部で15℃以上になったのとは、対照的。今回も、低気圧のコースがもう少し南を通っていたら、雪混じりや積雪になっているパターン。もう、今年のこのシーズンは、東京に雪は降らないだろう。年末にここに書いた予想通り、少なくとも、2週間くらいは、冬は早くに終わっている。今は例年の3月中旬くらいの天候かと観察される。3月の終わりには、桜の花は散っている筈だ。
 先日、久しぶりに雑誌を買ったので、それを持ってベッドに入った。本当は、見たい雑誌は沢山ある。月に14冊くらい。しかし、小説などと違って、増刷ということもないから、買ったものは捨てられない。だから、少し我慢をして、最小限の冊数に留めている。今の家に引っ越す時、思い切って何冊か捨てたけれど、今もまだ、中学生の頃にかった雑誌が数冊残っている。これでも、ネットに似たような情報も転がっていて、以前よりは買う数が少なく済んでいるのだが。
 極めて個人的な見解だが、ネットの中の専門的な情報の量は、2000年くらいがピークだった。WEBサイト自体はブログも含めて増えているから、相対的には、1/3程度に減っていると観察されるくらいだ。一時期、比較的簡単に見つけられたマイナーなコンテンツはかなり減って、それこそ雑誌でも見られるようなメジャなコンテンツが増えた。インターネットや、WEBサイト制作に対する新しさや珍しさ、そういうことへの興味の度合いの減少と、ほぼ比例しているのだろう。

暇にすれば解る

into-the-sky2009-03-02


2月15日
 出勤の日曜日。昨日に比べれば、少しだけ空気が冷えたかな、という印象。それでも、異常なほど暖かい。5時半過ぎにベッドを出てコーヒーを淹れた。暖かいというだけで、行動力が増している、ような気がする。こういう誤解というか麻痺の状態が、無理をして行き過ぎを生み支障をきたす要因となる。注意しよう。
 仕事には直接関係ないけれど、2パーセント、ごく僅かが関わるくらいのことで、多少腹が立つことがあった。天ぷらだと聞いたから蕎麦にしたのに、実際はパスタだったみたいな。職場での食べ物の話でも、スタッフ同士の、メニューをめぐるイザコザでもない。あくまでも比喩である。呆れてものが言えない、というか、「ものが言えない」としか言えないくらいの呆れというか・・・。愚痴を書き連ねるつもりはないので、詳細は一切書かず。熱湯をかけて洗剤で磨き、最後にさらに熱い湯をかけて、その熱ですぐに乾燥させるように、あっさりと水にながした。
 夕方に職場を出た。電車内では、読書をしないで考え事。調布駅付近の立体交差化工事は順調に進んでいるようで、窓から見える工事現場はかなり下方へ掘り進められている様子。地上近くに見えていた重機は、奥に下がってほとんど見えなくなった。相模原線と本線が合流する部分で上り線が下りの2線と平面交差するという、首都圏の鉄道では珍しい状況を改善するための事業。調布駅では、上り下りで2層になって、それぞれに一面二線の島式ホームが作られるようだ。この付近の車窓からの街並も、あと3年で見えなくなる。車窓という、大きな広告がなくなる駅前の街に変わる、ということ。途中下車する人の数は、減るだろう。
 夕食後の夜は、いつもの日曜日のように映画鑑賞。夏頃から頻繁に見始めた映画は、正月頃までは見た本数を把握していたけれど、今は、もう、解らなくなった。



2月16日
 昨日までの、暖かさの余韻が残っている月曜日。冬になる前、寒くなる前は、こんな感じだったのだな、と思い起こさせる朝。ここ数日、随分と明るくなるのが早くなったな、と思っているのは、この暖かさの影響だろうか。
 出勤して午前中は、ちょっとした仕事が数件、昼にかけて雑務をこなした。抱えている仕事に対して、何となくいろいろと考えた。本番は半年以上先。総じて、ゆっくりと時間が流れる日。こういう日は、考えごとが沢山できるので良い。
 1人の社員の特性を見極めるには、入社してから2年経過したくらいに、出勤を条件にその本人を思い切り暇にしてみることだ、と思う。仕事を与えればやる、それは当然なことだ。やたらと忙しそうに仕事をする人や、静かに早く終わらせる人もいる。沢山仕事を与えて解ることは、少々の個人差や要領の良さでしかなく、観察されることは、当人の、比較的表面的な少々の能力でしかない。しかし、暇にしてみる、つまり仕事を探させると、本来の志向が解るし判断力も解る。また、期限が与えられない環境において、それらに取りかかるまでの時間を観察することで、行動力も解るし洞察力も解る。そもそも、答えることよりも問うことほうが、使うことより作ることの方が、明らかに難しいし、エネルギーを必要とする。だから、それをさせると、より本質に近いものが解る、ということ。
 午後は、何人かの若い人と面接。1人概ね20分くらいの時間をかけた。ほとんど雑談に近いもの。この雑談が大事だと感じているからだ。もちろん、それをしたからといって、本音を聞き出せるとか理解してあげられる、というふうに単純にはいかないけれど、その当人が、今の何を見ていてどう自覚しているか、という抽象的なことの、少々の観察はできる。どちらかといえば、指導とか解決ではなくて、まずは、話をさせる、というのが、第一義的なスタンス。
 その後は、細かい仕事をこなしながら、ある知人に貸していた機材の返却を待って、夜9時過ぎに退勤。


2月17日
 昨日の朝より7℃くらい低い朝。気団が一挙に入れ替わった。しかし、三寒四温ではなく、一寒六温のイメージ。もう2日くらい寒さが続いたら使おうと思っていた手袋も、今年の冬は一度も使わなかった。今年は、今回と次の寒さが終われば、それと同時に冬も完全に終わるだろう。個人的には、遡って1月の下旬には、ほとんどの冬が終わっていたものと推測する。表現が不適切かもしれないけれど。
 今日も、特に大きな仕事がある、というわけでもなく、細かい仕事をいくつか。昼過ぎは、8枚のCDを聞きながら、来月完パケする作品のBGMの選択。最初からレポートやナレーションを一切使わず、BGMに映像を載せる、というのがコンセプト。イメージに合う楽曲はそれなりに沢山あったけれど、作品終わり、つまり、BGM終わりの部分が、なかなかイメージに合うものがなく、60曲くらい聞いた中で、該当するのは1曲だけだった。フェードアウトの曲は個人的に好きではないし、メロディラインが強いのもイメージに合わない。しかも、同じ調子で4小節以上ある後奏が続く曲、尺は4分30秒前後、という拘りもあったからだ。ちなみに最後は、夕景にスーパーテロップを静かに載せる部分。
 意識がモウロウとした状態で記者会見をした政治家を、マスコミが騒いでいるようだ。それを、職場のロビーに並ぶ数台の液晶テレビを通りがかりで見て知った。たまたま若い人が何人か居たので話をしたら、概ね「別にどうということはないしたいしたことでもない」旨の意見だった。僕も同感。下品であることには変わりないだろうけれど、そう騒ぐほどのことではないと思う。なぜ、そうなってしまったか、というより、なぜ会見を中止にしなかったのかが不思議だし、一人の不始末より、中止にできない環境であることの方が、不自然だと感じる。
 帰宅して、いつものように映画鑑賞。iLife09を買うかどうか、検討中。僕の場合、検討中ということは、1週間以内に買うことを意味しているので、きっと、買うことになるのだろう。