推し量る末の発言

into-the-sky2009-03-18


3月5日
 朝から晴れ。気温は低くて、細かく丁寧に作られた霜が、隣家の屋根を薄く覆っている。明るい朝は、だいぶ早くなった。
 出勤して、午前中は、ややイレギュラな会議。昼食を挟んでの午後は、月に一度の定例の会議。その後は、この時期特有の仕事。それを夕方に終えて、名古屋から久しぶりに上京したN氏と、職場の若い人達と共に、会合へ。自分よりも若い人との会合は、年に数回程度。大抵は、僕が一番年下になる。12時に帰宅。独り、のんびりと考えごとをする時間が、ほとんどなかった木曜日。
 
 ここ1.2年くらいで、マスクをしている人が増えた。イメージ的には、以前の5倍くらい。しかも夏の暑い時期以外は、いつも誰かがしているように観察される。昔に比べて花粉の影響が強くなっている、という違いはあるのだけれど、花粉症の人でもしない人はしないし、している人もしていない人も、同じくらいクシャミをしている。また、風邪をひいている人がマスクをしていても、やはり、風邪は順調ともいえるくらいに、周囲の人にうつる。
 マスクをしている人を見ると、鼻や顎に大きな隙間ができている人も少なくない。あまり意味がないように観察される。風邪の菌は、湿度と関係があるが、では、一年中、空気が乾燥している国の人達は、やはり一年中マスクなのだろうか。気休めというか流行というか、誤解というか間違えというか、そんな気がするが、どうなのだろう。いわゆる先進国で、日本ほどマスク人口が多い国は、他にはないだろう。
 僕は、僕は、年一度の職場の大掃除をする時にしかしない。もともと疑い深い性格なので、マスクの効果をあまり信じられないからだし、今までしなかったのだから、これからもしなくて問題ない、という、軽い短絡的な考えによるもの。僕も、毎日いろいろなビタミン剤を飲み、遠赤外線の電気ストープにあたり、マイナスイオンを放出する清浄器と共に暮らせば、もっと健康的な日々を過ごせるのかもしれない。



3月6日
 雨の金曜日。先日の雪とは違って、春の雨だと感じられる。駅までの途中にある芝生のゲレンデは、まだ、黄色く硬い。一応、春だし3月だけれど、今までの例年の、どの季節にも当てはまらないような天候。特に四季が明瞭である日本の場合、今までのような、夏らしい冬らしい天候の頻出度は、今後、さらに減っていくだろう。
 午前中は、ほとんど頭を使わないで、PCに向かっての仕事。午後は、職場に居る若い人に、いろいろと話をしたり説明をしたり。話をしていて、ここ数年で感じるようになったことは、随分と早口になったな、ということ。単位時間あたりで考えると、相対的に多言になった、ということを意味しているようだ。歳をとると共に、考え方は穏やかになり、気持ちも大きく高揚しなくなったと自覚している反面、アウトプットの量は増えたみたいだ。発言の量が発言力とはならないし、沢山のアウトプットが沢山の仕事をこなす、ということにもならない。そもそも、お喋りもあまり好きではないし。いずれにしても、極端にならないように、気をつけよう。
 一般的には、多言な人ほど得をする、と考えれる傾向にはある。たとえば、小学校の学級会などでも、発言をする生徒が優秀だ、というイメージが植え付けられるし、就職活動時のディスカッションでも、多言な人の方が目立つし、何も発言しない人よりかは、した人の方が採用されるケースが多いようだ。しかし、学校では、「人の気持ちを考えよう」と掲げられているし、一方、社会では、「言われなくてもできる人間」を求めていたりする。すると、発言することは、誰の何のためなのか、と不思議に感じる。もちろん、ディスカッションのすべてに意味がない、とも考えていないけれど、言われるほど大した意味もないのだろうな、とは思う。
 僕は、「発言すること」と、「推し量ること」が、ほぼ同列で語られるべきだと感じる。推し量ることなく、発言するのだったら、無用な時間を作らないためにも、黙って静かにしていたほうが、地球にエコで、自然に優しいだろう。ほとんどの場合、唯一の自分だけの意見というものは、大抵、多数の人が考えているようなこと、だからだ。



3月7日
 起きた頃は雲が多かったけれど、太陽が昇ると共に、青空の面積が増えた。空気の透明度が高く、陽射しは白く鋭い。
 休みの土曜日。今日も例によって映画を観た。1964年製作の邦画。1948年に実際に起きた事件を元に作られたもの。この年代の映画は、メッセージや社会風刺という穏やかなものではなく、世の中への不満や政治への揶揄を、直接ノンフィクションで描くようなドキュメンタリー映画が多い。もちろん、現代のいわゆるアングラものではなく、有名な俳優がキャストに名を連ねていたり、著名な作家がその事件の解決を支援したり、と、世の中から乖離することなく、大きなスケールでの表立った作品である。こういった作風の映画は、もう何年も作られていない。作品もアングラで上映館もアングラの様相を呈していて、誰が見に来るのだろう、と思ってしまうような作品は、あるのかもしれないけれど。
 話のニュアンスは少し変わるけれど、何度もここに書いているように、僕は天の邪鬼だし、天秤計りにイチゴを載せた場合の0.4グラムくらいの差で、どちらかというとアンチファシズムの傾向にある。けれど、「左」とか反体勢などという意識はない。消費税賛成派だし、給付金反対である。とにかく、決めるのも決められるのも、拘るのもあるいは拘っていると感じられることも好きではない。政治は普遍的でないし、世論も定常的でない中で、どちらかに属すると決めた段階で、もう自分の意見ではなくなると思うからだ。こう書くと、大げさに感じるし、精神だの思想だのを、日常的に考えているように見られるかもしれないが、実際は、それほど考えているわけではない。

 昼過ぎは、散歩に出た。およそ、1時間20分。途中の親水公園には、望遠レンズをつけたカメラマンが何人もいた。レンズの先を見ると、遠くの木に二羽の鳥がとまっていた。
 野鳥にレンズを向けている人を見る度に、凄いなと思う。自分には真似ができない。動物を撮るということは、もの凄く時間も手間もかかるし、鳥は、比較的小さいうえに動きが速いので、フレームに収めるのが難しいからだ。形に関わらず、カメラという道具を使い始めて久しいが、その方面には、興味が向かない。