その場で最初に観るものは

into-the-sky2009-02-24


2月12日
 昨夜は雨が降るかもしれない、という予報どおり、雲がほとんどない、星空だった。今朝も、ほぼ快晴。明らかな暖冬傾向だけれど、自宅の周囲は毎日のように霜が降りている。降灰の後、一度洗車をしたが、再び全体を薄く粉が覆っている。道路から巻き上げられたものだろうか。屋根にも道路にも、灰色のシミがある。そろそろ、真剣な雨を望む。
 少々特別な日で、出勤してから、ある人の講演会を聞いた。ただ、我々スタッフのための催しではないので、部屋の後ろの方で、傍観者的に。話をしている内容は、特に珍しくもなく、ごく常識的なことだったが、話法は、さすがにプロだな、と思った。イントネーションも豊がで、リズムが良くて聞きやすい。また、東京で聞く生の関西弁は新鮮で、インパクトもあって、それだけでも頭に入ってきやすいけれど、それに慣れると飽きるかもしれない。味の濃い、パスタを食べているように。
 午後はいろいろと雑務。同じ曲を連続20回くらい、聞きながらの作業。その曲のCDジャケットを見て、歌手の姿が写っている画像を見て、その曲を5回程度聞くと、頭の中で、映像が動き出す。最初に、カメラが切り替わる場所に線をひいて、アングルとカメラワークを記号化して、物理的な要件を満たしつつ、カメラ番号をいれる。曲をさらに何度も聞き続け、頭から映像をアウトプットしていくと、さらにそれ自身が具体化していく。今はネットの動画で、該当する曲のプロモーションビデオが見られるけれど、僕は、まったく見ない。意味がないし、そういうインプットは邪魔だと思うくらい。
 歌のカット割りに、主立ったセオリーはない。基本的には、何をどう撮ろうと自由である。しかし、根底には人がもつ、ごく自然な情緒に沿ったものが見やすい、ということはあるだろう。たとえば、Aコーラスの最初の4小節で、いきなり斜めからの広角なアングルは適さないように思う。その歌手をどこで見ても良い、という条件ならば、大抵、まずは、歌手近くの正面から見る筈だからだ。ただ、これも断定的ではなくて、半分くらいは好みの問題なのかな、というふうな解釈ではあるのだけれど。


2月13日
 晴れの金曜日。最近は、特に気にしなくなったようだ。いわゆる終末思考的なもの自体が、流行らない時代になったのだろう。日中は強い南風が入って気温が上がるだろう、という予報だが、自宅周囲の朝は、寒くて霜が降りている。レーダーで見ると、伊豆や大島では既に強い南よりの風が吹いているから、昼頃にはそれが入ってくるのだろう。まあしかし、南風の流入の予報は、ハズすことが多いから、今回も、沿岸部から内陸に向かって、どこまで地表付近に南よりの風が流入するかが、見もの。
 今日もやや特別な日で、珍しく上着を着て出勤。午前中は仕事のメールをしたり、書類を作ったりと雑務。午後は、さまざまな企業が来訪したので、その話をいろいろと聞いた。夕方前には、僕の前職の会社から3名が来訪。僕は最近、いろいろと話をしているので、やや静観ぎみ。50メートルくらい離れた職場を行き来していたら、次第に風が暖かくなってきた。
 夕方過ぎには、その3名と僕の職場の人3名、合計7名での会合。いつもの焼き鳥屋にした。さすがにここまで頻繁に行っていると、メニューはほぼ全てを覚えているし、勝手も解るので、非常に便利。やはりここでも、多言せず、比較的静かでいた。夜11時過ぎにお開きになった後、僕の職場の3名で、近くの居酒屋で2次会。深夜の3時過ぎまで、いろいろと有意義な話。基本的には3名とも酒が強く、よくありがちなヘンな話をしたり乱れたり、ということは一切ない。つまり、酒を飲んでいない時と、ほとんど変わらない。そういう意味では、酒を飲みながら、というのは無駄といえば無駄、である。タクシーで帰宅。
 家に入って、ネットで気温の履歴を調べた。本格的な暖かい南よりの風の流入は、平野部の西側では東京止まりだった。13日の17時の気温は、都内の大半が15℃以上だったのに対し、埼玉の大半が10℃以下。帰宅する前の14日3時は、都心から府中市あたりまでは17℃以上あったのに対し、埼玉の大半が8℃前後。埼玉の鳩山は、4.7℃しかなかった。風向きは、東京が全般的に南西の風が7メートル前後、埼玉が全般的に西よりの風が1メートルから無風の状態。埼玉も上空には暖気が入っていた筈だから、地表付近に南よりの風が入らなかった、ということ。丹沢山系や多摩丘陵の地形的な影響なのだろうか。


2月14日
 6時過ぎに起床。暖かくて、一挙に晩春の頃にワープような朝。この時間の薄暗さの方が、むしろ不自然。昼過ぎの自宅屋内は暑くて、方々の窓を開けた。屋内の電子温度計は、27.8℃。まあ、こういう印象的な暖かさの日が一日でもあると、暖冬を明確に認識することになるわけである。そろそろ、マスコミは暖冬を騒ぎ始めている頃だろう。
 ちなみに午前3時、東京の清瀬市から東久留米市付近に、大きな気温偏差があって、埼玉の所沢が8.9℃、清瀬市役所の周辺が10℃、西東京市の大半が17℃くらい。埼玉からその周辺だけ、南に垂れ下がっている。冬型の気圧配置になった後の、北西の風の吹き出しも、この周辺から始まって、徐々に都内全域に広がっていくことが多い。所沢の平らな台地を、北よりの風が通りやすいからなのだろうか。
 インターネットラジオのradioioで、今までとは違うJAZZのチャンネルを聞いている。楽器が多いJAZZというか1970年代の音楽というか、そういうふうな楽曲が流れている。たぶん、刑事コロンボで使用されているBGMの影響だと思われる。ただしかし、あくまでも雰囲気を楽しんでいるだけで、メロディラインが良いとか好きな楽曲があるとか、そういうことではない。タイトルは1つも知らないし、そもそもそのような楽曲がどういうジャンルなのかも知らない。チャンネル名にはJAZZと書いてあるから、きっとJAZZの中には含まれるのだろうか。たまに流れるアナウンスだと「ビックバンド・ジャズ・オーケストラ」と言っている。ビックバンド、オーケストラ、そう聞くと、確かに聞くことが多いジャンルかもしれない。
 夕方過ぎには、姉家族と両親とで外食。家から歩いて5分くらいの、最近新しく開店したレストランに行った。街全体の雰囲気や店外見にまったく合わない、下品な花輪が開店後1ヶ月くらいも出ていた店。今まで一度も行ったことがない、レストランチェーンということもあって、意を決したわけである(大げさ)。想像上のデフォルトが低く抑えられていた、ということもあって、店内の雰囲気は良く感じたし、味も美味しいと思った。これからも、行くことになるだろう。家から近いということも魅力。

無理をするな

into-the-sky2009-02-22


2月9日
 連休明け月曜日。ここ数日の中では、少し冷えているなという朝。駅までの途中、霜柱を踏んで、感触を楽しんだ。
 いつも乗っている時刻の電車は、一時期は古参車両が充てられていたが、2月になって、新しい車両が充てられることが増えた。ドアの上に、フルカラーの液晶ディスプレイが付けられている。最初はもの珍しさで、何回か見ていたけれど、案の定、まったく視線を送らなくなった。中には、25年くらい前に製造した車両にも改造して設置された編成もある。「サービス向上」というテーマで、車内広告に掲載し自画自賛しているようだが、毎日利用している客には、ほとんど関係ないだろう。「車内の奥に・・」というアナウンスの通りに奥に行くと、見ることすらできないし。僕は、ホームの向かい側にもインフォメーションのボードを取り付けた方が、便利じゃないか、と、もう何年も前から思っている。あとは、遅延情報のメールサービスも良いと思うが。
 出勤して、朝からバリバリと仕事を進めた。実際には、その音が周囲に聞こえないように、忙しくしていると見せないようにと、日々精進している。しかし、本当に、ほとんど仕事をしていないかもしれないから、のっぴきならない。明日休みにするのが目的だったり・・・。まあ、忙しく見られ、実際に忙しい状況よりかは、健全だと思う。
 仕事で、ついつい無理をしてしまうのが、普通だと思う。それは、若いうち履歴が浅いうちほど、顕著にでることだろう。モチベーションも高いし、要領も悪いからだ。ここ数年、食品の偽装や建設業における談合などの話題が、枚挙にいとまがないくらい頻出しているが、大抵は、無理し過ぎた結果によるものだ、と観察される。本来、止めたり正したりする管理している側の人間も、一緒になって無理したことによるのは明らかである。だから、可能な限り、自らを暇にして、部下に対しては常に「無理をするな」と言える、そういう管理職が大勢いる職場は、これからも安泰だ。


2月10日
 やや寒い朝。氷点下にはなっていない。比較的白く見える陽射しが、家の中の方々にある。寝室の窓からは、遠くの町田市街もはっきりと見えていて、空気の透明度は高い。
 というわけで、昨日は無理なく残業をして、無理なく予定の仕事を終えたので、今日は、無理なく休み。昨夜は職場で、先日の高尾山ロケの報告書を作っていた。誰からも指示はされていないが、指示されないからこそ書こうと、衝動的天の邪鬼論理的に思いついた。完成度95パーセント。あと15分くらいで完了することは解っていたけれど、あえて途中で止めた。一挙に完成させ
ないで、わざと時間をおいて翌日以降に完成させたり提出させたりするのは、一種の癖のようなもの。文章を寝かせる時間を作って、完成度を高めるためだ。まあ、一度に完成度の高いものを作らないという、要領の悪さもあるだろう。
 最近、日記をブログにアップするのを遅らせている。もちろん、書くことは毎日しているので、遅れてしまっているわけではない。特に深い意味はないが、ただ何となく少々の理由がある、というくらい。今日の内容をアップするのは、10日間くらい後だろう。
 映画を観て、シャワーを浴びて、車で南大沢へ。母からのリクエストによるもの。質の良い、充実した品揃えの園芸ショップがあるため。だいたい1ヶ月に1度、カゴ一杯の花を買っている。僕はその店で、霧吹きを買った。母と別れ、僕はフランフランに行った。欲しい物がいくつかあったけれど、あえて買わず。年明けのららぽーと港北で、沢山買い物をしてしまったからだ。単なる電化製品と違って、その方向の商品には、とかく自重気味の人間である。ワイシャツ専門店にも行きたがったが、同じ理由で、遠慮させていただいた。30分くらいでおち合って、駅前のスターバックスへ。
 窓の向こうに見えるアウトレットモールを見て、母は「他にも大型モールが沢山あるけれど、相変わらずここは人が大勢来ている」旨の話をされた。確かに、平日の昼間にも関わらず、家族連れや若い人達が沢山来ていた。特に、他の要件的な理由がない場合、もっとも優先されるのはそこまでの距離なのだなと、3秒間くらいで再認識したしだい。距離に次いで規模、その後に値段・シチュエーションの順になるだろうか。どこへ行くかの選択は、すなわち優先順位の選択と同義、というわけである。


2月11日
 久しぶりに陽射しのない朝の、水曜日。午前中は予想通り曇っていたけれど、昼過ぎからは時々晴れ間も見えた。寒い日中であることには変わりない。
朝食後は映画鑑賞。アカデミー賞をとった作品。見てからそのことに気づくほと、受賞したことに関心がない。同じように考えるひとが圧倒的多数かと散見される。要するに結果的には、スタッフや出演者の今後のギャラを引き上げる、という程度の効果しかないように思われるが、いかがだろうか。出版界においては、たとえば、日本の直木賞なんていうものも、同じだと思う。天の邪鬼な僕の場合、むしろ受賞した作品は読まない傾向にある。受賞したからその作家の他の作品も同様だ、とはもちろん、思えないし。しかし、この映画は面白かった。こころの中で、賞を送った。
 昼前に家を出て図書館へ。専門書など5冊を借りた。最近は一段とノンフィクションの作品を選ぶ傾向にある。毎回、40分くらいかけて、ゆっくりと本を選んでいる。1年前に比べれば、利用者がかなり増えている印象。とにかく、勉強している学生が多い。家よりも図書館の方が勉強が捗るというのは、ほとんど妄想だと思う。あ、しかし、妄想で良いのか、と思ったり・・。ソファでのんびりと雑誌を読んだり、暇そうに机に向かっている年輩者は、どちらかというと男性が多く、熱心に勉強している学生は、どちらかというと女性が多い。世の中の風潮そのままで、微笑ましい。久しぶりに隣接するカフェにも行った。10ヶ月くらいは経っていると思うけれど、店員の方々は覚えていたらしく、「久しぶりですね」と声をかけられた。やや離れたテーブルには、隣接した集会施設の利用者だと思われる年輩の女性のグループが、「お静かに」という貼り紙に関係なく、大きな声で会話をしていた。やはり、世の中の風潮を象徴していて、微笑ましい光景。
 帰宅した後は、「刑事コロンボ」を見た。ピータフォーク扮するコロンボが、ポットを机に叩きつけて、珍しく声を荒げて犯人を怒鳴るシーンがあった。たまにある、人間くさい行動が、見ていて面白い。夕食後は、映画をもう1本観た。11時に就寝。

見た先にあるもの

into-the-sky2009-02-17


2月6日
 まあ、それなりに寒い、という朝。相変わらず、晴れていて雨も降らない。隣家の屋根には、まだ灰が沢山残っている。
 今朝は、職場の車で自宅から出勤。6時過ぎに家を出て、およそ3年ぶりの高尾山へ向かった。高速道路を使わずに、一般道をゆっくりと走った。途中、渋滞もなく、1時間くらいで到着。まずは麓にあるケーブルカーの駅務室で挨拶をしてから、発着場近辺からの撮影。もちろん、あらかじめ撮影許可申請をしていたもの。その後、歩いて5分程度にある、一般の人は入れない、ケーブルカーを縦位置で撮影できるポイントに案内してもらった。もちろん、ここでの撮影も、リクエストさせてもらっていた場所。担当の方は、とても丁寧な対応だった。40分程度で、この場所は終了。再度、麓の発着場に戻り、ケーブルカーで高尾山駅(上の駅)に移動。もう別のもう1チームと落ち合って、1号路を進みながらいくつかのポイントで撮影をして、途中から4号路の吊り橋や周囲の景色を撮影して、山頂に上がった。
 先に休憩をして、その後、山頂付近での撮影。平日だったので、他の客も所々に数名ずつ居る程度。弱い冬型の気圧配置で風もあったので、新宿や横浜の高層ビルがはっきりと見えるくらいの視程。雲をまったく冠らない富士山も撮影できた。1時過ぎに下山を開始、1号路を進んだ。往きと同じように、撮影に相応しい場所を見つけては、止まって撮影した。1時間程のんびりと歩き、薬王院へ到着。もちろんこの場所も事前に撮影許可申請をしていた場所。 やはり、寺務所へ行って挨拶をしてから、撮影を開始。今回はディレクターを担当していたので、僕は撮影をしなかったけれど、ここでは1カットだけ撮影。ちょっとした空き時間に、お守り授与所で、様々な種類のお守りを見ていた。良いのがあったら買おうと思っていたからだ。もちろん、縁結びのお守り。20年近くお守りを買ったことも貰ったこともないし、占いとかお守りとか、そのようなものにはそもそも興味もないし、効果があるとも思っていない。ただ、今までしていなかったことだから、あえて、とは思ったわけである。まあ、そのうち・・・。
 1時間程、所々点々と撮影した後、そのまま1号路を降りて、ケーブルカーの高尾山駅へ。4時前に着いたので、付近の眺望が良い場所で、30分くらい待った。夕景を撮影するため。その後、ケーブルカーで麓の駅に降りて、5時前に終了。車で職場に戻った。


2月7日
 休みの土曜日。昨日より薄い青空。日中は風がなく穏やか。空気は相変わらず乾燥している。
 朝食後はコーヒーを淹れて映画を観て、掃除をして音楽を聴いて・・・、もうこのフレーズは何回書いただろうか。いかに変化のない休日を過ごしているかを、改めて実感する。朝食・映画・掃除・音楽をパターンA、朝食・音楽・掃除・散歩をパターンB・・というふうに記号化して書くと、文章が短くなって良いかも、と思ったり。いずれにしても、それぞれあまり変化はないけれど。
 昨日は、日中ずっと歩いていたので、散歩はせず。その代わりに、ネットで「運輸安全委員会」のWEBサイトを見ていた。鉄道事故調査報告書がPDFで公開されていたので、それを10件ほど読んだ。いつも利用している私鉄の事故報告や、有名な西日本での大事故の報告など。どの報告書もおおむね10ページ前後だが、さすがに西日本の大事故は全部で154ページもあった。事故に直接関わる原因や事実が載るだけの公告かと思っていたら、運転手の、過去に遡ってから事故当日までの様子や、周囲の人間模様のようなものが、かなり詳細に記されていた。また、被害にあった方々の事故直前から事故後にかけての克明な証言も多数掲載されていた。やはり、人が人に対して起こした事故だったのだ、改めて実感したわけである。
 事故やグロテスクな惨状に興味があるわけでもなく、被害者やその関係者は何を感じどれほど苦しんだのかに関心があるわけでもない。ただ、当事者が、関係者が、被害者が、その所々でいったい何を見ていたのか、その目線の先の光景を想像したい、と思った。好きな作家の小説か、向かいの座席で楽しそうに話をする学生か、昨日より速い景色の流れか、いつもより長く感じるレールの長さか、妙な角度の吊り革か、見える筈がない太陽か、宙を舞う書類か、大事な人の笑顔か、正しくなくなった速度計か、・・・。
 他人が、どう考えたか、どう悼んだのか、ではなくて、想像したことによって、自分自身はそれに対してどう考えているか、これを知りたいと思うのである。


2月8日
 連休の日曜日。昨日の朝よりかは、全体的に白く見える。けれど、冷え込みもなく、比較的暖かい朝。陽が高くなるにつれて、風が次第に強くなった。陽なたで、風を受けなければ、暖かい。そろそろ雨を期待したいところ。
 朝食後は映画。ペンギンが沢山登場する作品。タイトルは覚えていない、というか、見ていない。もちろん、初見の作品だったので、喋ったり歌を唱ったり踊ったりするペンギン達を見て、どの方向にストーリーが進んでいくのかが疑問だった。非常に大雑把な印象では、内容の半分くらいで二分され、前半と後半で違う映画を観ているようだった。「なんだ、そっちにもっていくのか」みたいな。ペンギンが好きだから観た映画だし、面白かったし、不満はまったくないけれど。何年か前に、映像の専門誌で取り上げられているのを読んだが、さすがにCGの技術は凄い、と思った。
 掃除をして洗濯をして、散歩に出た。1週間前と、ほぼ同じコースだったので、撮影した新しいデジカメの画像と以前のものを見比べるつもり。ニュータウン区域外の神奈川県側から家の方向を見ると、随分と高台であることを実感する。見ているそこの場所も、近くに川崎市の雨量強度観測レーダーのアンテナがあるくらいの高台なのだけれど。帰りに買い物をして、2時間くらいで帰宅。
 夕食前に、「刑事コロンボ」を見た。元々好きな作品で、以前からたまにテレビでやっているのを見ていた。CSデジタルに加入したら、毎週1本を放送しているチャンネルを見つけて、ブルーレイに録って見ていた。昨年末からは、NHKBSハイビジョンでも全タイトルの放送が始まった。しかも、ノーカットの状態をHDでテレシネし直したもので、やはり抜群に映像が綺麗。勝手に、僕のためにしてくれたのだ、と思い込んでいる、おめでたい人間である。そのNHKに対抗してか、2月からは、CSで毎日1作品ずつの放送が始まっている。ウレシイカギリ。

セレモニーの不自由

into-the-sky2009-02-13


2月3日
 先週に続いて、朝が早い火曜日。家を出ると、歩道は依然としてグレーの薄いベールの下にある。一時期に比べると暖かい朝。既に、冬のピークは過ぎている。窓の外に見える桜の木は、枝の先が赤く見えるようになっている。葉が落ちた木、ではなく、つぼみを付ける前の木、になっている。
 早く出勤して、他に誰もいない職場で、1人で朝食をとった。その後は、仲良くさせてもらっている掃除のおばちゃんと二言三言話をした。仕事のメールチェックをしたりリプライをしたり、という朝。
「悲惨な体験を、その記憶を風化させてはいけない」と言って、いわゆるシンポジウムのような場をつくって、世の中に広く認知させる、ということが多い。しかし、重大で大切で貴重な経験ほど、当事者の記憶にはいつまでも明確に残る反面、関わらない人にとっては現実味を帯びないので、期待するほど意識は共有できないし、聞いてもすぐに忘れてしまう。えてして、当事者と傍らで見る人との温度差は、簡単には減らないわけである。それらをやることに意味はあるわけだが、ありていにいえば、それらは、温度差が今以上に広がらないようにする、その程度の効果しかない。
「一時を過ぎるとすぐに取り上げなくなる」とマスコミを批判するような言い分も頻繁に聞かれるけれど、一方では、それを望んでいない受け手の意識を繁栄している、ともいえる。人の意識も、テレビの見方も、マスコミの取り上げ方も、つまりは、そういうことだ、といえる。関心が薄れ、出来事を忘れ、直面したときに思い出したり反芻したり、あるいは後悔したりもする。
 そういうふうに繰り返しながら、少しずつ学んでいくことしか、人にはできないようだ。人間らしさの象徴だし、自由の象徴ともいえるだろうか。他の何よりも、ある記憶・ある価値・ある考え方を強制する社会は、すなわち独裁の状態とほぼ同義である。


2月4日
 朝が早い日の2日目。闇が解ける時間は、だいぶ早まったと感じる。朝は冷え込まなくなったけれど、日中はそれほど暖かくない。空気の透明度が下がり、突き刺さるような強い日射がないからだろう。雨が降らないため、家の周囲は相変わらず薄いグレー。地形的な影響で、近くの他の地域よりも、灰が多く当たったみたいだ。
 夜、帰宅すると、外玄関で何かを踏んだ。嫌な感触だったので下を見てみたら、豆だった。どうやら節分だったらしい。平日は自宅で1人で食事をしているが母が太巻きを買っておいたらしく、それをいただいた。
そういえば、職場の若い人から、「逆チョコ」という新しい言葉を聞いた。「男性から欲しい相手を指定できるシステム?」と聞いたら、「チョコレートを男性が女性にあげること」と教わった。いずれにしても、「逆バレンタイン」としたほうが、まだ自然だろう、と思ったしだい。そういうふうに考えると、「義理チョコ」という言葉も、不思議だと感じる。そもそも全てが相手に対する「義理」によるものなのでは。やむを得ずやらなければならないことであっても、自然にやろうと思うことでも、その本人が考えた正しい筋道ならば、である。
 まあ、この時代、もっぱらテレビなどのマスコミによって、風習とか儀式とか記念日とか、そういう慣しを認識することになる。たとえばテレビのない昔はどうだったかと考えると、もっと地域や街や町内会という小さな単位でのアナウンスだったし、長老者の語り継ぎによる伝承だった。すわわち、それくらいの広さや大きさしかもたない慣習だったわけである。現状のような、ほとんどが一同に、というセレモニーは、マスコミによって一般化したり風習化したりしたことが多いわけで、いわば必然的なことである。だから、それらがない時代でも、不自由さというものは、なかったのだろう。何でも商業主義に結びつけられている今のセレモニーの方が、かえって不自由にさえ感じる。
帰宅して映画を観た。12時頃に就寝。


2月5日
 木曜日の晴れ。朝の予報では日中暖かくなるとしていたけれど、実際は雲が多くて、肌寒かった。最高気温は10℃くらい。しかし、今年の冬は、なかなか雪が降らず、まだ一度も積雪がない。例年より200キロくらい、冬が北にあるのだろう。先日の福島や宮城の大雪が、ちょうど関東平野に雪をもたらすパターンに近いものだった筈だ。
 定常的な仕事が今日で1つ終わった。しばらくの間は、少し静かな日々。平日の休みをいれるつもり。明日の外の仕事のスタンバイを終えた後の夕方は、打合せが1つ。30分くらい。
 駅までの道や職場までの道で撮影してみて、新しいデジカメを、いろいろと試用している。自動設定での撮影機能が重視されている最近の機種と違って、手動での設定項目が充実しているので、今までと同じような画像にするために、いろいろと試行錯誤している。取り扱い説明書も、最近には珍しくかなり厚いものだ。家の中でも試し撮りをして、Macintoshに取り込んで、設定を変えたり説明書を見たりして再び撮影して、ということを繰り返している。今日は普通の朝に戻ったので、明るい状態での風景を撮影してみた。横縦比の設定が16:9しかなく、しばらくは3:2での撮影。ここに掲載する写真の横縦比も、明後日くらいから変わるだろうか。
 使い勝手が違うだけで、基本的にどのメーカーのどの機種でも、仕上がりの画像は、そう変わらない。撮影者の拘りのようなものは、見ている人には一見ではあまり伝わらない。物が便利になり使いやすくなる、ということは、誰がとか、どのような条件でそれを使っても、違いが生じにくくなることと、ほぼ比例している。
 ネットを見ていると、「デジカメ撮影講座」みたいなタイトルを良く目にする。いわゆる市民講座とか沢山のWEBサイトがあるけれど、時間をかけて何を教えるのかが不思議。僕もそれなりに、撮影とかカメラとかテクニックというものには詳しい方だとは思うが、デジカメの設定を訪ねられたら、オートで十分だと答えることにしているし、より綺麗に写真にしたければ、安くとも10万円以上のカメラを買うことを勧めるし、上手に撮影したければ、まず、沢山撮影して沢山プレビュすることだと言っている。専門的な知識がなければ撮影できない、ということはほとんどない。誰でも簡単に撮影できるのがデジカメだし、そもそもセオリーらしいセオリーが存在しないのが、写真だと思う。人に見てもらい、それなりにメッセージ性を含めるのであれば、それなりの撮り方はあるけれど。

クロマが下げられたような

into-the-sky2009-02-09


1月31日
 雨雲の大部分は通り過ぎているが、それがあまりに強力だったために、余韻のような弱い雨が降っている朝。遠くの雨が強い風によって飛ばされてきているようにも見える。休日の土曜日。午後に少しだけ仕事があって、昼過ぎに出勤。
 昨年度に続いて、今年度の研究論文が論文集に掲載されることが決まった。今年は、それほど手間をかけなかったし、強いメッセージ性も含めなかったので、意外。ここの日記的ブログとは違って、多少意欲的なアウトプットをしているから、書くからには、掲載されないより掲載された方が効果的で良いとは思うが、まあ、それくらいにしか捉えていない。昨年の11月に提出した原稿を、改めて推敲して、若干の校正をして再提出するつもり。仕事を終えて、夕方、早々に帰宅。

 帰りに駅の近くの家電店に寄って、デジタルカメラを購入。今まで使ったことのないメーカーで、比較的広角側から、ズーム比1:7.1のレンズが搭載されている機種。液晶画面の画素数も高くて、メジャなクラスのデジカメにしては、低価格で高機能。交渉して店頭表示価格より随分と安い値段になったけれど、その後店員が商品を取りにいって欠品していることが解った。それを先に言わず値引きをするなんて、不思議である。たとえば、アマゾンは日によって、あるいは一日の中でも時間によって、価格が細かく変わる。2万円程度のものが、数時間で3000円も価格が振動することもあるくらいだ。基本的に、物の価値は、その瞬間でのものだから、何とも緩慢としているというかおっとりとしているというか、憤慨することもないけれど、それで良いのか、という感じ。
 参考までに展示品の金額を聞いたら、「同じ金額です」と言われた。「誰かが落としたりしているかも知れないのに?」と聞いても、答えは同じだった。考えようによっては、展示品と同じくらいの低価格、だし、不具合品と同じ価値しかない、だし、新品と同じくらいの高価格、ということになるか。なんとも、矛盾しているというか、なんというか、奇々怪々である。
夕食後は、映画を1本と、「刑事コロンボ」を観た。


2月1日
 風が強い朝。朝の早い時間から風が強いのは、少し珍しい。日中もほぼ緩慢なく強い風が吹き続けている。空気の透明度も高い。光は意欲的。それでも気温は10℃を少し超えた。冬の峠は越した、と感じる。
 高台にある自宅の周辺は、北から西にかけてシャッターするものが何もなく、北西の風向きだと、いわゆる吹きさらしになる。
 特に家のすぐ前の丘の上にある公園は、北西側はやや急な斜面になっていて、下からも勢いよく風が吹き上がってくる。それが家にも当たるから、一段と強い風を受ける。
 休日の今日は、朝食後に映画を2本観た。後は、観葉植物の手入れをしたり、掃除をしたり。名前を知らない小さな鉢に入っている観葉植物は、年末までほとんど枯れかかっていたが、栄養剤を与えて面倒を見てあげるようにしていたら、新しい葉を一ヶ月で18枚も出した。葉の色も、以前は黄緑色で意気を感じなかったものが、濃い緑になり艶も出て、ふた周りほど大きくなった。栄養剤の効果を実感している、今日のこの頃である。
 昼過ぎは散歩に出た。今日はおよそ3年ぶりのコース。駅の反対側の高台から街全体を見渡すことができる所へ。川崎市の中で、最も北に位置する、畑地。非常に対照的な東京側の開発街区とは、駅の近くを走る街道が境界となっている。その高台をさらに奥に進むと、今度は横浜側に開けた部分があって、その方面を一望できる。ちょっとした散歩でも、海抜差80メートルくらいを上り下りすることになるから、それなりに大変だが、その分、いろいろなものが沢山見えて、面白い。
 帰宅して、「刑事コロンボ」を観て、夕食。夕食後は、邦画を観た。3年くらい前に公開された、非常に知名度の高い作品。ホームシアターシステムのサラウンドで聞いているけれど、数多くある小声の台詞にボリュームを合わせると効果音は大き過ぎ、音量が高い部分に合わせると、小声がほとんど聞こえない。洋画は字幕で補完をして観ているのだな、と実感したしだい。11時過ぎにベッドへ。読書を始めて、4分くらいで意識がなくなった。


2月2日
 昨日の強い風は止み、穏やかな朝。家の屋根や車の上には、灰色の粉が沢山載っている。自宅の3階から立川の方を見ると、全体的に空気が白濁している。浅間山の噴火による、降灰。これほどの降灰を間近に見たことは、過去に記憶がない。出勤のために家を出ると、周囲の街路のアスファルトも、全体的にグレー。自転車のタイヤの跡が見えるくらい。屋外では、目で見えるものすべて、クロマが下げられたようなカラーリングになっていた。と、いうことで、消極的な晴れ、のように見える天候。
 たまにこうして、自然の威力や地球のメカニズムを目の当たりにすると、今まで忘れていたこと、あるいは、特に意識していなかったことを思い起こさせてくれるから、現実の再認識ということでは、非常に効果的だ。逆にいえば、そのような状況にならないと意識できない、ということでもある。何かが起こらないとアクションしない、実際に経験しないと意識できないというメカニズムは、我々の日常に沢山あることであって、いかに、前もって予測したり想像したりするかが、因果を遡るような、永遠のカオスというかジレンマということになるだろう。むしろ、その実体験のために、また、その解決のために生活しているといって、間違いないわけである。

 デジカメを注文していた家電店から連絡が入った。メーカーから納品されたらしい。店員の方の話によると、店内での在庫は常に1つで、1つ売れたらメーカーに注文して取り寄せる、というシステムらしい。広告に載らないようなマイナーな商品は、あまり在庫していないようだ。ちなみに、その家電店で値引きをしてもらった値段は、アマゾンの値段と数百円安い程度。店に出向く手間を考えると、ほぼ同じ金額である。一時は増えた大型家電量販店も、長い目で見れば徐々に淘汰されていく傾向にはあるだろう。
 夜7時過ぎに職場を出て、商品を受取って帰宅。試しに何枚か撮影してみた。特にマクロの機能が強く、被写体まで1センチの距離でもフォーカスが合うから便利。今までのようなCCDの画素数のアップではなく、液晶の高精細さやレンズの性能で、いわゆる商品力を競ってもらいたいと折に願う。

面倒でないことからエコ

into-the-sky2009-02-07


1月28日
 夜に雨が降ったみたいで、窓の外を見るとアスファルトが濡れていた。空気が湿っていて、いつもより落ち着いた光景。水曜日。
 昨日と同様、いつもより家を早く出て、朝マックに寄った。年末にビニール袋をやめて、紙袋にコーヒーは手持ちになった。スターバックスのようにフィンカバーをつけるわけではないので、そのうち、火傷のクレームが出て何か少しは改善されるのだろうなと思っていたら、昨日はコーヒーも同じ袋の中、今朝は別の紙袋に入れられた。確かにそれはそうなるだろうな、と思ったしだい。
 いわゆるエコ(エコロジー)とは、比較不便にすることとほぼ同義だ。豊とか便利という名の消費があり生産があり、そしてエネルギーを使ってきた。だから、その分を切り詰めれば、エコには多少の効果がある。しかし、「できるところからエコ」も、「一義的に面倒でないことからエコ」とほぼ同義であるのが実体で、抜本的なエコには進まない。たとえば、ビニール袋をやめたり、クリームや砂糖の一律配布をやめたりするよりも、24時間営業をやめた方が、効果的なのは明らかである。自動車だって、いわゆるアイドリングストップ機能やハイブリッドエンジンなどと、エコを強調しているけれど、乗らないのが最も効率的だし、生産しないことがさらに効果的なのは間違いない。それをやらないのは、特に不思議なことではなく、売り上げを減らしたくないという、要するに企業側の論理であって、一方的に単純に都合が良いからである。
 ただ、「地球にやさしい」より「エコ」の方が、短くて言いやすいし、使いやすい言葉だから、その分、環境保護の方向には進みやすいだろうな。まあ、流行言葉のようにマスコミなどで騒がれているうちは、所詮、その程度では。


1月29日
 朝から曇りの木曜日。一昨日から少しずつ雲が増えているイメージ。朝の冷え込みもなくて、日中の暖かさもない。手抜き天候的天気(意味不明)。
 そういえば、職場のネットの不調は、昨日やっと改善された。いわゆるウイルス対策ソフトのバグが原因だったらしい。それを説明するメールがきたけれど、専門用語のようなカタカナが短く簡潔に書かれていただけで、具体的にはよく解らない。説明過少なメールを転送しただけで、どこの誰も、ユーザーに詳細を説明しようという気がないみたいだ。以前はこれらの状況を、「まだ過渡期だから仕方がない」みたいに誤摩化していたけれど、いったい、いつまで過渡期なのだろうか。単なる手抜きのような気もするけれど。
 先週から、新しいデジカメを何となく探している。1つ、あるメーカーのある機種が気になって、店に行って、電源が入る実機を何台か見てみたけれど、液晶画面とその外側のカバーの位置が悪くて、液晶画面の右を1ミリくらいを隠しているものがあった。2.7インチの大きさで1ミリが隠れて見えないというのは、カメラとしては致命的。話にならないな、と思った。もうこのメーカーのものは、買わないだろう。新たに違うメーカーのものを探すことに。
 ところで、ネットなどで調べていると、「コンデジ」という言葉が多く見られる。「コンパクトデジカメ」の略らしい。今まで、普通に「デジカメ」と呼んでいたと思うが、いつからか変わったみたいだ。いわゆる一眼レフのデジカメと従来のデジカメとの間に、その隙間を埋めるようなスペックのレンズを搭載する機種が増えてきたからなのだろう。もっとも普及しているスペックの機種に、大きさの表現はいらないのでは。名前を変えて差別化をすると、コンデジもデジカメも両方売れると思ってのことか。コンパクトハウスとかコンパクト化粧ポーチとか、あっ、240mlの大きなハーゲンダッツが登場して、今までのがコンパクトハーゲンダッツ、略して「コンハーゲン」とか。変だな。


1月30日
 昨日は夕方から、僕が以前働いていた会社からの招待で、懇親会へ。早めに職場を出て、別の職場に立ち寄って、そこの2人と共に、赤坂に向かった。接待される側とはいえ、随分と早く店の前に行った。その付近は別の会社というか、別のチャンネルの牙城。待っている間、何人かと挨拶をした。僕の職場からと前の職場からの計8名での会合。いろいろと情報の交換ができて、非常に有意義だった。どういうわけか、ここ2年くらいで、対企業・組織としての関係がやや急速に深まっているように観察される。両方に関わる自分の立場が利用しているとかされているとか、そういう意識はまったくなくて、単なる偶然だろうな、と思うだけである。ごく個人的には、若い頃に世話になっている会社なので、少々の恩返しのような気持ちはあるけれど。
 9時過ぎにお開きになって、いつもの上司と2人で新宿に向かい、2次会。駅の近くの店で、もっとも見晴らしの良いテーブルへ案内された。近くの大きな交差点と少し遠くの大きな交差点と、新宿を発着する電車が見えた。呑み会としてはもったいないシチュエーション。12時過ぎに帰宅。
明けて今日、金曜日。雨の朝。雪になりそうな雨ではなくて、雨まっしぐら、である。日中から夜にかけても、この時期としては珍しく、真剣な雨。地球上のどこかで、雨をあまり降らせることができなかった、後ろめたさによるものか。
 経済状況が悪くなって、大企業が続々と赤字転落を発表している。ここまで相次ぐと、まるで一種の流行のようなものだし、それぞれ競って、経営状態の悪さを主張し合っているように見える。連帯的被害者意識に基づくものかと散見される。いずれにしても、人員削減という最も効率の良いリストラだけを短絡的に行っている。今までの黒字で、いったい何をしていたのか、そういう本質的な部分は、ほとんど見えてこない。そのような情けない姿に、マスコミがバッシングをしないで静かに報道しているのは、相手がCMのスポンサーだったりするからだろう。

山ばかりでの発展

into-the-sky2009-02-01


1月25日
 ほぼ快晴の朝。寒気の南下具合や前日の寒さと比べれば、それほど強い冷え込みではない。朝陽はいつもより白く眩しい。日中は風もなく、穏やかな天候。冷たく静かである。
 朝食後の8時過ぎには、すぐに映画を見始めた。「ニュー・シネマ・パラダイス」イタリア映画。サウンドトラックのCDは前から持っていたし、タイトルも知っていたけれど、実際に観たのは初めて。しっとりとした穏やかな作品。細かな内容というよりかは、描写、誰かの生きざまというよりかは、文化や時代、という印象。
 昼過ぎには、久しぶりに長距離の散歩を2時間くらい。天気の良さもあって、散歩をしている人が多かった。途中からは初めての道を歩いた。2メートルもないくらいの幅しかない道だった。木々や草に囲まれて、周囲を見渡せない部分があったので、iPhoneGPS送電鉄塔を目印しにして歩いた。
 地形の良い所には街道がひかれ、その街道沿いに商業が富み、街が発展した。一方で、平坦な場所には田畑を営む集落が広がり、個々の集落や街道とを結ぶ道も増えた。人が増え街が栄えると鉄道が引かれ、一段と開発が進み、利便性が増すと、さらに人が集まった。それに対し、尾根と谷戸が複雑に混じる丘陵地では街道が引かれず、平地の少なさによって、大規模な集落もできない。商業も発展せず、鉄道も通らず、人が集まらない。街道にも遠く、起伏に富んでいる丘陵地ほど、いわゆるニュータウンのような大規模な開発によらない限り、発展はしなかったわけである。
 乱開発だの森林破壊だのと、マスコミはとかく日本の自然が壊されていくことを強調する傾向にはあるけれど、実際は、国土における森林の割合は7割弱もあって、ヨーロッパやオーストラリアとは、まるで比較にならないほどの高い割合だし、人が住むことができる土地面積の割合は、アメリカやフランスの半分もない。だから、「少しでも暮らしやすい所に人が密集している」「開発してようやくここまで人が住める面積が広がった」という表現が適切だろうと思う。
 都心から電車で30分と経たない東京都内に、何十年も時間が止まったままのように見える光景が、静かに、そして緩やかに、広がっているのだ。


1月26日
 特に気をとめることがない朝。晴れていて穏やか。日中も普通の天候。いつもの月曜日。
 午後はこれといった仕事もなく、ずっと雑務。頭をほとんど使わず、淡々とこなせる作業。職場のインターネット回線が朝からずっと不調で、5分ほど経過しないと、コンテンツのすべてが表示されない、という状況。各所に点々とある職場をまとめている部署の担当者から、不具合を説明するメールが届いた。詳しい原因は解らないらしい。結局、終日不調が続いた。憤慨しているスタッフも居たようだけれど、僕にあまり気にならなかった。考え方が古いからだろうと思う。未だ、ネットの環境があることがデフォルトだとは考えていない。人生のしばらくはなかったもので、最近備わった補助的な環境という意識である。どこかに、そういうものに振り回されては駄目だ、と思っているに違いない。昔は、テレビに振り回されては駄目、電話に振り回されては駄目、さらに大昔は、電気に振り回されては駄目、という時代もあったのだろう。備わっていて当たり前の環境とは、それ自身に依存している環境、ということ。
 夕方過ぎには、書類を作る仕事が入ってきた。金曜日が締め切り。客観的な分析と主観的な考えの両方が求められるもの。あえて、今日は手をつけずに、そのままにしておいた。その書類提出の目的だけを少しだけ考え、その先のシミュレーションをした。他のあらゆることにも共通していることだが、目的を掴むことができ、結果によってどのようなアクションが生じるかを予測することができれば、1つの仕事の大半は終わっている。目的に対して、選択するべき手段は幾通りもないからだ。
 ところで、大人は子供に対して、「手段は他にいくらでもある」と言うことが多い。しかし、ほとんどの場合、大人が期待するような手段を子供が選択していないときに発する言葉である、として間違いないだろう。そう言うことが間違っているとは思わないが、言う側はそれを自覚するべきだとは思う。あともちろん、選択するべき手段において、最善が常に最適とは限らない、ということも、である。


1月27日
 寒さの勢いも、青空の勢いもない朝。日中は風もなくて穏やか。
 早い時間からの仕事だったので、朝食をとらずに1時間ほど家を早く出た。ラッシュのピーク前なので、いつもの電車よりも4分くらい所要時間が短い。ラッシュ時でも電車に乗っている時間は30数分だから、たった4分の違いでも、随分と早く到着するイメージ。車内では、相変わらず、読書をしたり考えごとをしたりしているので、それぞれの時間が少しずつ減る。時間として考えれば、どこにでもありそうな、いつでもできそうなことではあるけれど、実際には代わりの時間はほとんどない。つまりは、その環境による、ということ。
 日記を書く時間は、前にも書いたようにだいたい決めている。しかし、仕事が休みの日は、稀にまったく違う時間に書くこともある。書きすすむペースは一定ではなくて、書く時間によっては、10分間くらいでほとんどを書き終えることもあれば、40分間くらいのこともある。大抵、何かをした後はペースが速くて、何かをする前が遅い。たとえば、散歩から戻った後や、家の掃除を本格的にした後、あるいは、キーボードには向かっていないけれど、駅まで歩いた後の電車内も、断片的にいろいろなことを思いつく。一方、考えごとだけや読書だけ音楽鑑賞だけという体をほとんど動かさない状態が続いた後は、比較的時間がかかる。体を動かした後で、脳が活性化しているというような自覚はもちろんないが、パーティの後に出てくるゴミや大風の後の枯れ葉のような、動くと出てくるもの、みたいな意識はある。喩えが良くないかな。
 書き方は、最初から文章で成立してそれを打ち込んでいく場合と、先に断片的な言葉が浮かび、それをメモのように打ち込んでいって、考えながら文章化する場合がある。後者の方が思いつきのペースが速くて、つまり、キーボードタッチが追いついていかないからである。