山ばかりでの発展

into-the-sky2009-02-01


1月25日
 ほぼ快晴の朝。寒気の南下具合や前日の寒さと比べれば、それほど強い冷え込みではない。朝陽はいつもより白く眩しい。日中は風もなく、穏やかな天候。冷たく静かである。
 朝食後の8時過ぎには、すぐに映画を見始めた。「ニュー・シネマ・パラダイス」イタリア映画。サウンドトラックのCDは前から持っていたし、タイトルも知っていたけれど、実際に観たのは初めて。しっとりとした穏やかな作品。細かな内容というよりかは、描写、誰かの生きざまというよりかは、文化や時代、という印象。
 昼過ぎには、久しぶりに長距離の散歩を2時間くらい。天気の良さもあって、散歩をしている人が多かった。途中からは初めての道を歩いた。2メートルもないくらいの幅しかない道だった。木々や草に囲まれて、周囲を見渡せない部分があったので、iPhoneGPS送電鉄塔を目印しにして歩いた。
 地形の良い所には街道がひかれ、その街道沿いに商業が富み、街が発展した。一方で、平坦な場所には田畑を営む集落が広がり、個々の集落や街道とを結ぶ道も増えた。人が増え街が栄えると鉄道が引かれ、一段と開発が進み、利便性が増すと、さらに人が集まった。それに対し、尾根と谷戸が複雑に混じる丘陵地では街道が引かれず、平地の少なさによって、大規模な集落もできない。商業も発展せず、鉄道も通らず、人が集まらない。街道にも遠く、起伏に富んでいる丘陵地ほど、いわゆるニュータウンのような大規模な開発によらない限り、発展はしなかったわけである。
 乱開発だの森林破壊だのと、マスコミはとかく日本の自然が壊されていくことを強調する傾向にはあるけれど、実際は、国土における森林の割合は7割弱もあって、ヨーロッパやオーストラリアとは、まるで比較にならないほどの高い割合だし、人が住むことができる土地面積の割合は、アメリカやフランスの半分もない。だから、「少しでも暮らしやすい所に人が密集している」「開発してようやくここまで人が住める面積が広がった」という表現が適切だろうと思う。
 都心から電車で30分と経たない東京都内に、何十年も時間が止まったままのように見える光景が、静かに、そして緩やかに、広がっているのだ。


1月26日
 特に気をとめることがない朝。晴れていて穏やか。日中も普通の天候。いつもの月曜日。
 午後はこれといった仕事もなく、ずっと雑務。頭をほとんど使わず、淡々とこなせる作業。職場のインターネット回線が朝からずっと不調で、5分ほど経過しないと、コンテンツのすべてが表示されない、という状況。各所に点々とある職場をまとめている部署の担当者から、不具合を説明するメールが届いた。詳しい原因は解らないらしい。結局、終日不調が続いた。憤慨しているスタッフも居たようだけれど、僕にあまり気にならなかった。考え方が古いからだろうと思う。未だ、ネットの環境があることがデフォルトだとは考えていない。人生のしばらくはなかったもので、最近備わった補助的な環境という意識である。どこかに、そういうものに振り回されては駄目だ、と思っているに違いない。昔は、テレビに振り回されては駄目、電話に振り回されては駄目、さらに大昔は、電気に振り回されては駄目、という時代もあったのだろう。備わっていて当たり前の環境とは、それ自身に依存している環境、ということ。
 夕方過ぎには、書類を作る仕事が入ってきた。金曜日が締め切り。客観的な分析と主観的な考えの両方が求められるもの。あえて、今日は手をつけずに、そのままにしておいた。その書類提出の目的だけを少しだけ考え、その先のシミュレーションをした。他のあらゆることにも共通していることだが、目的を掴むことができ、結果によってどのようなアクションが生じるかを予測することができれば、1つの仕事の大半は終わっている。目的に対して、選択するべき手段は幾通りもないからだ。
 ところで、大人は子供に対して、「手段は他にいくらでもある」と言うことが多い。しかし、ほとんどの場合、大人が期待するような手段を子供が選択していないときに発する言葉である、として間違いないだろう。そう言うことが間違っているとは思わないが、言う側はそれを自覚するべきだとは思う。あともちろん、選択するべき手段において、最善が常に最適とは限らない、ということも、である。


1月27日
 寒さの勢いも、青空の勢いもない朝。日中は風もなくて穏やか。
 早い時間からの仕事だったので、朝食をとらずに1時間ほど家を早く出た。ラッシュのピーク前なので、いつもの電車よりも4分くらい所要時間が短い。ラッシュ時でも電車に乗っている時間は30数分だから、たった4分の違いでも、随分と早く到着するイメージ。車内では、相変わらず、読書をしたり考えごとをしたりしているので、それぞれの時間が少しずつ減る。時間として考えれば、どこにでもありそうな、いつでもできそうなことではあるけれど、実際には代わりの時間はほとんどない。つまりは、その環境による、ということ。
 日記を書く時間は、前にも書いたようにだいたい決めている。しかし、仕事が休みの日は、稀にまったく違う時間に書くこともある。書きすすむペースは一定ではなくて、書く時間によっては、10分間くらいでほとんどを書き終えることもあれば、40分間くらいのこともある。大抵、何かをした後はペースが速くて、何かをする前が遅い。たとえば、散歩から戻った後や、家の掃除を本格的にした後、あるいは、キーボードには向かっていないけれど、駅まで歩いた後の電車内も、断片的にいろいろなことを思いつく。一方、考えごとだけや読書だけ音楽鑑賞だけという体をほとんど動かさない状態が続いた後は、比較的時間がかかる。体を動かした後で、脳が活性化しているというような自覚はもちろんないが、パーティの後に出てくるゴミや大風の後の枯れ葉のような、動くと出てくるもの、みたいな意識はある。喩えが良くないかな。
 書き方は、最初から文章で成立してそれを打ち込んでいく場合と、先に断片的な言葉が浮かび、それをメモのように打ち込んでいって、考えながら文章化する場合がある。後者の方が思いつきのペースが速くて、つまり、キーボードタッチが追いついていかないからである。