セレモニーの不自由

into-the-sky2009-02-13


2月3日
 先週に続いて、朝が早い火曜日。家を出ると、歩道は依然としてグレーの薄いベールの下にある。一時期に比べると暖かい朝。既に、冬のピークは過ぎている。窓の外に見える桜の木は、枝の先が赤く見えるようになっている。葉が落ちた木、ではなく、つぼみを付ける前の木、になっている。
 早く出勤して、他に誰もいない職場で、1人で朝食をとった。その後は、仲良くさせてもらっている掃除のおばちゃんと二言三言話をした。仕事のメールチェックをしたりリプライをしたり、という朝。
「悲惨な体験を、その記憶を風化させてはいけない」と言って、いわゆるシンポジウムのような場をつくって、世の中に広く認知させる、ということが多い。しかし、重大で大切で貴重な経験ほど、当事者の記憶にはいつまでも明確に残る反面、関わらない人にとっては現実味を帯びないので、期待するほど意識は共有できないし、聞いてもすぐに忘れてしまう。えてして、当事者と傍らで見る人との温度差は、簡単には減らないわけである。それらをやることに意味はあるわけだが、ありていにいえば、それらは、温度差が今以上に広がらないようにする、その程度の効果しかない。
「一時を過ぎるとすぐに取り上げなくなる」とマスコミを批判するような言い分も頻繁に聞かれるけれど、一方では、それを望んでいない受け手の意識を繁栄している、ともいえる。人の意識も、テレビの見方も、マスコミの取り上げ方も、つまりは、そういうことだ、といえる。関心が薄れ、出来事を忘れ、直面したときに思い出したり反芻したり、あるいは後悔したりもする。
 そういうふうに繰り返しながら、少しずつ学んでいくことしか、人にはできないようだ。人間らしさの象徴だし、自由の象徴ともいえるだろうか。他の何よりも、ある記憶・ある価値・ある考え方を強制する社会は、すなわち独裁の状態とほぼ同義である。


2月4日
 朝が早い日の2日目。闇が解ける時間は、だいぶ早まったと感じる。朝は冷え込まなくなったけれど、日中はそれほど暖かくない。空気の透明度が下がり、突き刺さるような強い日射がないからだろう。雨が降らないため、家の周囲は相変わらず薄いグレー。地形的な影響で、近くの他の地域よりも、灰が多く当たったみたいだ。
 夜、帰宅すると、外玄関で何かを踏んだ。嫌な感触だったので下を見てみたら、豆だった。どうやら節分だったらしい。平日は自宅で1人で食事をしているが母が太巻きを買っておいたらしく、それをいただいた。
そういえば、職場の若い人から、「逆チョコ」という新しい言葉を聞いた。「男性から欲しい相手を指定できるシステム?」と聞いたら、「チョコレートを男性が女性にあげること」と教わった。いずれにしても、「逆バレンタイン」としたほうが、まだ自然だろう、と思ったしだい。そういうふうに考えると、「義理チョコ」という言葉も、不思議だと感じる。そもそも全てが相手に対する「義理」によるものなのでは。やむを得ずやらなければならないことであっても、自然にやろうと思うことでも、その本人が考えた正しい筋道ならば、である。
 まあ、この時代、もっぱらテレビなどのマスコミによって、風習とか儀式とか記念日とか、そういう慣しを認識することになる。たとえばテレビのない昔はどうだったかと考えると、もっと地域や街や町内会という小さな単位でのアナウンスだったし、長老者の語り継ぎによる伝承だった。すわわち、それくらいの広さや大きさしかもたない慣習だったわけである。現状のような、ほとんどが一同に、というセレモニーは、マスコミによって一般化したり風習化したりしたことが多いわけで、いわば必然的なことである。だから、それらがない時代でも、不自由さというものは、なかったのだろう。何でも商業主義に結びつけられている今のセレモニーの方が、かえって不自由にさえ感じる。
帰宅して映画を観た。12時頃に就寝。


2月5日
 木曜日の晴れ。朝の予報では日中暖かくなるとしていたけれど、実際は雲が多くて、肌寒かった。最高気温は10℃くらい。しかし、今年の冬は、なかなか雪が降らず、まだ一度も積雪がない。例年より200キロくらい、冬が北にあるのだろう。先日の福島や宮城の大雪が、ちょうど関東平野に雪をもたらすパターンに近いものだった筈だ。
 定常的な仕事が今日で1つ終わった。しばらくの間は、少し静かな日々。平日の休みをいれるつもり。明日の外の仕事のスタンバイを終えた後の夕方は、打合せが1つ。30分くらい。
 駅までの道や職場までの道で撮影してみて、新しいデジカメを、いろいろと試用している。自動設定での撮影機能が重視されている最近の機種と違って、手動での設定項目が充実しているので、今までと同じような画像にするために、いろいろと試行錯誤している。取り扱い説明書も、最近には珍しくかなり厚いものだ。家の中でも試し撮りをして、Macintoshに取り込んで、設定を変えたり説明書を見たりして再び撮影して、ということを繰り返している。今日は普通の朝に戻ったので、明るい状態での風景を撮影してみた。横縦比の設定が16:9しかなく、しばらくは3:2での撮影。ここに掲載する写真の横縦比も、明後日くらいから変わるだろうか。
 使い勝手が違うだけで、基本的にどのメーカーのどの機種でも、仕上がりの画像は、そう変わらない。撮影者の拘りのようなものは、見ている人には一見ではあまり伝わらない。物が便利になり使いやすくなる、ということは、誰がとか、どのような条件でそれを使っても、違いが生じにくくなることと、ほぼ比例している。
 ネットを見ていると、「デジカメ撮影講座」みたいなタイトルを良く目にする。いわゆる市民講座とか沢山のWEBサイトがあるけれど、時間をかけて何を教えるのかが不思議。僕もそれなりに、撮影とかカメラとかテクニックというものには詳しい方だとは思うが、デジカメの設定を訪ねられたら、オートで十分だと答えることにしているし、より綺麗に写真にしたければ、安くとも10万円以上のカメラを買うことを勧めるし、上手に撮影したければ、まず、沢山撮影して沢山プレビュすることだと言っている。専門的な知識がなければ撮影できない、ということはほとんどない。誰でも簡単に撮影できるのがデジカメだし、そもそもセオリーらしいセオリーが存在しないのが、写真だと思う。人に見てもらい、それなりにメッセージ性を含めるのであれば、それなりの撮り方はあるけれど。