営業的非例外的思考

into-the-sky2009-04-17


3月29日
 出勤の日曜日。朝の寒さが日中も持続している。やや本格的な寒の戻り。週間予報によると、あと3日間くらいは続くようだ。しかもここ数日、天候が安定的でない。東京都内だけの風向きを見ても、東よりの風の地域と北西の風の地域がある。特に午後になると流入する海風の影響か、風向きのばらつきが目立つ。それに合わせるように雲に覆われ、日中の気温も上がらない。
 7時過ぎに家を出て、いつものように、駅までの道をひたひたと歩いた。寒の戻りが続く中、草木や芝生には、だいぶ緑色の面積が増えてきた。やはり、土筆の量が多い、と感じる。芝生と歩道の境界には、すでにアリが巣から土を運び出している様子も見られる。ただ、それらのスピードは、例年より静かに穏やかなようだ。年度内最後の営業活動の一日。
「営業」という言葉は、部署の名前や、いわゆる「営業活動」というタイトルのように、メジャーでしかも具体的な印象を持つけれど、実際には非常に抽象的な表現として使われていることが多い。これは、言葉の持つ本来の意味と、使っている人の意識とのずれから生じる、いわばギャップのようなものだろう。しかし、むしろ後者の印象のほうが自然だ。どんな仕事でも、基本的に、人が人に対してすることだからだ。仕事の中の第一義的な要素として、営業的視点や営業的活動が問われる、ということであって、営業だけをこなしていれば成立する仕事もないし、営業的感覚を抜きにしてできる仕事もないわけである。
 モノの売り込みには、以前から営業という言葉が、なかば代名詞のように使われてきた。ホテルなどの接客業も、それは同様であって、新入社員はまずは営業から、というスタンスに代表されるように、いわゆる営業的スタンスが重んじられている。それに対し、同じ接客業でも、昔の鉄道やバス・タクシー会社では、そのスタンスが軽んじられていた。「乗せてあげている」という考え方が勝っていたのだろうか。それでも10年くらい前からは、乗務員とは言わないで、「営業係り」と呼ぶ会社が増えてきた。これには、本来必要だったスタンスが欠落していた、という、いわば自省の念からくる、意識の変化だったのだろう。


3月30日
 桜の花は、ようやく少し増えてきた。けれど、寒の戻りは相変わらず。この時期にしては寒い朝が続いている、月曜日。
 いつものように家を出て、森と芝生の歩道を歩く。今日も、5種類の野鳥が、いろいろな声を発しながら、いろいろな動きをしている。朝は、駅までひたすら続く下り坂をやや早歩きなので、声だけ聞いて、あるいは、植栽の中を動く音だけを聞いて、という、日常の環境を進むだけになるが、少し歩くスピードを下げるだけでも、日頃、見えていないものや、いつもとは違った環境を観ることができる。これからは、もう少しゆっくり歩くことにしようかな、と考えてみたり・・・。こう書くと、自分が一挙に歳をとったように感じる。まあ、事実、歳をとった、ということか。「歩む速さ」なんて書くと、さらに、一層、情緒的で、ノスタルジーで、老い、になる。
 今日からは、今週末の、やや大きめな仕事のスタンバイ。実際には、一日と半分程度ですることを、ゆっくりと時間をかけて四日間くらいかけての作業となる。これは、僕のしている仕事の宿命、と書くと大げさだけれど、合理や短絡といった言葉が似合わない仕事もあるわけである。何度も書いているけれど、僕は、基本的に観ているだけである。

 郊外あるスタジオで観桜会があるため、夕方前に職場を出た。電車で40分くらい、そしてバスで10分くらいの、丘陵地の森の中にある。実は、自宅からは車で15分ほどの近さで、その広大な敷地の前の街路を走ることが多いけれど、季節によっては、タヌキがでる、という場所。
自 宅の前と同様、やはり郊外はまだ、二部咲き。知人の照明会社のスタッフが、桜の木にライトアップしていたけれど、ほんのり、木の幹が浮かび上がる、という程度。例年、咲いていなかったり、雨が降っていたり、ということが多いらしい。ほぼ満開で晴天だった昨年が、非常にレアケースだったらしい。
 およそ2時間弱、大勢の人と挨拶をして、少しずついろいろな話をした。何しろ、同行した上司が、もの凄くメジャーな人なので、共に行動をするだけで、大勢の方々と挨拶をすることになる。
 このような会合への参加を重ねるにつれて、知人は増えるし、話すことも増えていく。さすがに、この歳の、この履歴の組織人としては、必然的なことだけれど、むしろ、随分と当たりまえのことをしているな、という思いがあって、表面的な有意義感ほど、真にそう考えられない、という今日この頃である。
 2次会のお開きまで参加して、夜12時頃に帰宅。


3月31日
 6時前に起床。顔を洗ってコーヒーを淹れて・・・、というスタイルは依然として変わらない、と時折書いて、記録しておこう。昨日よりは、やや暖かい朝。窓の外にある桜の木を観ると、花をいくつかつけている木の隣に、ほとんど咲かせていない木がある。よく見ると、紅くて小さな葉のようなものが沢山あるのが解る。今年は咲かない木なのかもしれない。
 出勤して、仕事の大半は、昨日の続き。合間に、他のスタッフは業者にメールをしたり、雑務をこなしたり、という日。職場のテレビには、また、野球が流れていた。どうやら高校野球らしい。「野球なんてやらないで勉強したり社会奉仕すれば」というテレビのコメンテータっていないな、と思ったり・・。こう書くと、「いや、子供がやる気を持ってやっているから」「何をやろうと個人の自由だ」と思われるとは推測されるけれど、まったく、その通りで、同感である。
 ただ、いわゆる野球少年を、あるいはその行動を美化する価値観というのは、どこからくるものなのか、と疑問に思うし、「精神が鍛えられる」という常套句に対して、その精神って何なのか、僕にはよく解らない。増して、たとえば、それに丸刈りの強制が関係あるとは思えないし、生徒のプライベートの素行が影響するとも思えない。プロの選手は良くて、なぜ、高校球児は駄目なのか、その説明は、いつ誰がしているのか。連盟?マスコミ?親?先生? いわずもがな、まあ、好きにしてください。
 いずれにしても、職場のテレビの野球中継の音は、控えめに・・・。

 夕方過ぎからは、3月中旬頃にあったある仕事の打ち上げ。珍しく、経営者のトップも参加。経営者が居る、いわゆる本部は、4駅くらい離れた所にある。わざわざ足を運んでいただいたわけで、非常に、レアである。一次会は、2時間ほど。その後は、ほとんど同じメンバーで2次会へ。各人、それぞれといろいろな話を沢山していたようだ。僕は、こういう場では、比較的あまり話をしない。主体的な理由は特になし。3時間ほど居て、深夜の1時頃に帰宅。