雑然の中だからこそ

into-the-sky2007-07-01

 昨日から、北東からのやや涼しい風に変わった。日本付近で振動を繰り返している前線の北側に入っている。けれど湿度が高い風なので、少しでも薄日が指すと、蒸し暑くなる。この時期の、ほぼ、教科書通りの気圧配置である。西に勢力を強めている太平洋高気圧の位置が、気になる。雑草は、このところの天候で、だいぶ上に伸びてきた。隠れ処が見つかり、虫たちは、きっと、喜んでいるのだろう。桜の木も、4月の頃とは違う木になったように、緑が大きく膨らんでいる。綺麗な花をつけるスペースなど、今は、もう、ない。

 久しぶりの休み。6時に目が覚めてベッドの中で、まどろみながらの読書。それから朝食をとって、家の中の整頓をしました。
 そう、整頓といえば、小学校の教室に「整理整頓」なんて貼ってあったと記憶しています。しかし、それを過ぎると、途端に見なくなる。工場には、掲げられていますね。一般的には、掃除という言葉に含まれて代弁されているわけです。僕も、ここ3年ぐらいで、ある3つの企業の工場に招待され、視察に行きました。いずれも“超”がつく精密機器の工場。専門ではないので、詳しくは解らないのですが、少なくとも、1/100ミリ程度のオーダーでデザインされている機器。使用時にそれだけの精度が求められるのです。それで、全身白装束のチリ1つ落ちていないような雰囲気を予想していくと、ほとんどの場合、それとは違う。工場というよりかは、「まちこうば」というイメージに近いものがあったのです。そのうちの1つの工場は、単体で1000万円を超える機器も製造している工場で、確かに、その場に、納品先の企業名が簡単なメモ紙に貼られている、製造中のものも置いてありましたけれど、とても、1000万円のオーラみたいなものは、その機器からも、周囲の雰囲気・環境からも、まったく出ていなかった。辺りには、黒くクスんだ道具や油汚れしているダンボール、分解されて原型を留めていない修理品の、各パーツが山のように散乱していたのです。もちろん、スペースも狭い。天井は高かったけれど。
 テレビでたまに放映されている、白い壁に光り輝く床、たまに、ロボットみたいなものがひたひたと動く、静かですべてが綺麗な工場っていうのは、あれは、創造の現場ではなく、ルーチンワークの環境なんですよね。規格通りのパーツを、規格通りにはめ込み、組み立てているだけ。つまり、試行錯誤がほとんど行われない。そこにいる工場機械も人間も、すべてが同じ動作をしていて、無駄もないし、ゴミも出ないし汚れない。
 一方、僕が勝手に表現している「まちこうば」では、1つ1つを材料から作る。精度も機械任せだけではなく、作る人の目や耳や手などの鋭敏な感覚によるもの。しかも常にいろいろな作業がランダムに存在しているから、道具も散財している。無駄な動作を省くために、所狭しとそれが置かれている。少数の人員でさまざまな工程を経ていくので、いろいろな物が、汚れている。完成品は、抜群に洗練された精密機器でも、そこに行き着く手前では、その製品自体も創造物の1つだから、汚い。これらが、必然なわけです。
 技術や道具が発達してきて、綺麗な作業環境を持つ工場も増えてきてはいるのでしょうが、すべてがそのような環境にはなり得ない。そうではない、昔ながらの環境でないとできないものもあって、それが極めて必然的なことなのでしょう。けれど、それを、勘違いしている人間や、綺麗で静かなビルのオフィスで仕事している人が、たまに見て、「綺麗にしろ」「整頓しろ」だなんて言うのだろうと、観察されるわけです。こんな環境では良いものは作れない、環境を向上させよう、とね。必要なものを移動したりしまいこんだりして、そこに観葉植物を代わりに置いたりして。そこにいつも居る人には、それがあろうがなかろうが、関係がなくて、求めているのは、機能的かどうか、であるはず。
とにもかくにも、常に「綺麗」や「整理整頓」を推奨する人って、何のためなんですかね。どこかに汚いものを持っている、後ろめたさからか? ゴミだらけでいろいろな物が放置されていることと、あえて汚く雑然と置いていること、この二つの境界を持たない人なのでしょう。自分がいる職場のことではないので、誤解なきよう。
ちなみに、僕の職場の机の上には、PCが置いてあるだけ。矛盾はしていません。だって、机上では、ほとんど仕事しないからね。不必要なものを移動させていったら、そうなったわけ。