少々の違い

into-the-sky2007-02-21


 朝は霧が立ち込めていた。気温以上に、冷たいと感じる重い空気だった。
 東京での、霧で肌寒い天候は、冬にはあまり生じない。霧が発生するメカニズムはいくつかあるけれど、少なくとも、地上から上空まで寒気に覆われ、気温が安定していて、冬特有の乾燥した空気に覆われていると、ほとんど出現しない。今年の冬らしさの象徴ともいえる。
 一方、例年の冬らしい冬の場合、“接地逆転”がよく起こる。空気が乾燥して無風な時に強く生じる放射冷却現象によって、地表付近が相対的に冷やされる。通常時は、上空に向かって、ある層までは気温が下がっていくから、そこで、日射で暖まった空気と上空の冷たい空気との対流が起きる。しかし、接地逆転で地表が冷えると、密度のジレンマにならないので、下層と上層の空気の対流が起きない。この状況下で自動車などからの排気ガスが放出されると、ある一定の高さまでいくと、そのまま漂う。層を横から見ると、薄い綿が細い筋の様に静かに浮いている状態になっている。目に見えない、形にならない、境界も意識できない“空気”が、行き止まったような光景を目にすると、面白い。ごく僅かな違いが、目に見える大きな現象へと発展するわけである。
 今年は、まだ、接地逆転を見ていない。まあ、僕が見ていないというだけだが。


 ブログのカレンダーを見ると、水曜日の投稿は12月から今日まで、1回しかない。1月2月はずっと水曜日だけ空いている。まったく、拘りもなく決めてもいないし、振り返ると水曜日だけ忙しかったという物理的要件もなかったわけだから、不思議である。少なくとも、寝る時間がある、ということは、書こうと思えば書けたはずである。つまり、ごく僅かな、気分的なものや、その違いによるものだろうと思うが。理由は解らない。解明しようとも思わないけれど。


 日常を過ごしていて、「どうして、こうなったのか」と考えることがある。僕はその時、淡々と、“分岐点”をイメージする。どちらに進むかを選ぶとき、まずは、周りを見渡すし、もちろん、先も見る。その地点から、分岐した先の何かを直接見通せることもあるけれど、大半は、その地点からは見えないものである。そこで、考えることになるが、それは想像力というものが支配する、はっきりと見えないものであって、「おそらく、こうなるだろう」という程度の弱いものでしかない。だから、その分岐点が、“一大決心”の場にはなりえないし、取り返しのつかない事態へと向かい進むきっかけになるわけでもない。
 大抵の場合、二つのどちらかの違いというものは、明確でない。これが三つ・四つと増えていけば、それぞれの持つ差異は、さらに薄く弱いものになっていくはずである。運命の分かれ道ではなく、その先に進んでいく過程に、運命が関わり、それは、選んだあとの自分の行為によるものだ。
 分かれる二つの、互いの角度もその先の道も、決して大きなものではない。僕のイメージするところ、せいぜい、木の小枝の先のようなもの、である。もし、選んだものが、その木の大成にならないとしても、それはあくまでも自分の木であり、枝である。誰かの別の木に変わるわけでも、元に戻れないことでもない。選んだことで、その大成から離れて進んでいったとしても、また、次の分岐点で、それに近づくことも不可能ではないし、もし、最悪の事態になり、小枝が枯れそうになったとしても、それを切り落とすことも不可能ではない。
 たとえば、傍らから見て、いわゆる成功しているように、勢いがあるように、見える人もいる。「良い会社に入ったな」「良い人と接しているな」と、あたかも、良い選択をしてきたように観察する人は、少なくないだろう。けれど、ほとんどの場合、良く見える“それら”は、選択した後の動作やメカニズムで形づくられたものである。
 大きな何か、影響を与える何か、は、結果そのように見える、ということであって、そのきっかけになった、分岐点での境界条件やその違いは、小さく、薄いものでしかない。