焦らない、スピード

into-the-sky2007-02-20

 今日も6時過ぎに目を覚ます。暗く厚い雲は下まで降りていて、圧迫感があった。家を出る時間に雨が降り出す。この雨で、それは解消されるだろうか。冷え込みもないけれど、日中になっても気温は上がっていない。時間の進み方も、遅い。と、感じる。


 雑務というと若干印象が悪いが、そのような仕事がこの時期多い。時間に関係なく、一人でも可能な仕事であれば、前倒しをして先行して終えることも可能なのだけれども、その時期にならなければできない、誰かと共にやる必要がある業務は、何となく落ち着かない。せっかちな性格が起因しているのか。
 歳を重ねてくると、僕が元来持つ、プライベートでののんびりさと、業務上でのせっかちさの“差”が、広がってきているような気がする。社会に出るまでは、仕事という概念、仕事というスピードは持たなかったから、とにかく、スピードを上げることが、必要になった。職種的にも、一般企業よりスピードが求められるものだったから、これには苦労したわけである。慣れるまでは、事を早く開始するということで、フォローした。慣れてきたら、自然とスピードが上がった。一方で、プライベートのスピードは変わらないどころか、むしろスローになってきているから、差が広がっていくことになるわけである。

 話は少し変わるが、“世の中”という集合を考えた場合、たとえば、20年と比べると、明らかにスローペースである。“勢い”とか“一丸となって”という価値観が重んじられた高度成長期には、当然のようにスピードが求められた。将棋倒しになる寸前のように、前が進むから進まざるを得なく、後ろから押されるから押されざるを得ない。誰が始めたのでもなく、誰が押したのでもない。また、それは、方向が定まっていたものでもなく、単に進むという、一元化された目的のようなものに向かって、進んでいた。大勢が一丸となって押し寄せることで、必然的に速くなっていたわけである。
 そのうち、勢いがなくなると、方向性は収束しない散在したものになり、各々が自ら、進む道を見いだす。一人が立ち止まり、一人が周囲を見渡し、一人が違う方向へと歩みだす。大勢の人は、徐々にその量を減らし、スピードは遅くなる。やがて、誰かが、効果的であり合理的な短絡路を見つけると、皆が探していたものだという錯覚が始まり、今までとは違う方向に、大勢が押し掛けていった。高度成長から、バブルへの、変移である。それも、総量規制による金融引き締めという、政府の方針で強引に断たれる。バブルの崩壊である。
 バブル経済という方向に吊られて揺さぶられ、強引にカットアウトされた人々は、完全に行き場を失った。勢いがなくなったばかりか、途中でその道は完全に途絶えて、消えた。強制的にスローダウンし、歩みが止まった。長い間続いていた、不況である。“速い”必要がなくなった、というより、遅くなる必要があった、ということだろう。それが長期間に及んだことで、速いことの価値は、引き継がれなかった。そして、今に至る。
 若い世代が社会や経済に出ると、むしろ、速いことの優位性は、方向性を定める手段として、その陰を薄めている。けれど、企業の経営者にあたる団塊の世代の人々の潜在意識には、かつて経験した“速さ”が残っている。現代の緩やかなスピードと、その意識とのジレンマに悩みながらも、どこかに、スピードを求め、速い答えを望みとする。
 僕は、単純に、それが悪いとは思わないし、否定もしない。昔のスピードも現代のスピードも、作為的というよりかは、むしろ、結果的であり必然的であったからだ。先進的な技術を扱う企業には、やはり、スピードというものは必要だろう。けれども、しかし、短絡的に、ただ、変わることの速さ、改善されることの速さを求めるあまり、“付け焼き刃”的な志向で物事を押し進めても、昔のような速さでの結果は望めない。
 現在に、大切なのは、スピードではなく、タイミングであり、進む方向性である。「今だ」とか「この方向だ」と決めれば、それを信じて、ゆっくりと歩んでいくしかない。それに勢いがなくても、一度に大勢でなくとも、歩み、進んで行けば、誰かは必ず、それに、付いてくる。最初はそれが少数でも、やがて、大勢になる可能性は、含んでいるはずである。
 結果が出ないことに焦り、八方に矢を放っても、方向性を見失っていて、定まらない。付いてくる人はいない。余力を使い果たして、放たれる矢勢も失ったら、あとは尽き果て、亡くなるのを、待つしかない。