月は怖い。月は愉しい。

into-the-sky2007-02-19

 朝は曇っていたが、しだいに青空の面積が増えていった。寒くもないし、暖かくもない。はっきりしない寒さのために、暖かいことにも鈍感になっているのだろうか。暖冬の影響で、冬の寒さでもなく、春の暖かさでもない、このようなことは、今後も頻繁に訪れるはずだ。そろそろ、春夏秋冬の四季では、無理だろうか。新しい季節を作ったほうが良いかもしれない。


 昨日は、DVDで映画鑑賞。確か、3年ぐらい前の邦画だったはずだ。内容はかなり黒く、刺激的なものだった。僕は、実は、残虐なシーンを見ることができない。暴行されるシーンも、女性が男に襲われるシーンも、駄目である。血も嫌いなので、注射されるというシーンでさえも、無理である。とにかく、リアルなものに対しては目を背けてしまう。痛そうだし、悲惨だし、一人でも誰かとでも、見ることができない。幼いころは、例えば、刑事ものドラマも普通に見ていた。洋画に多いそのようなシーンも平気だった。今は、無理である。そのようなシーンが出てきそうな映画は、手で顔を覆う準備をしながら、見ている。このようなことを書くと、「心に傷を負うような体験があるのか」と思われるかもしれないが、僕自身には少なくとも、そのような経験は、ない。
 映画のタイトルは、“血と骨”。ビートたけし主演映画である。内容は、“思いと心”ではない、とすると、解るだろうか。まあ、ネタバレにならない程度に収めておく。その後は、美味しいケーキをいただいた。感謝! 最近は、どちらかというと、静かで暗い映画が多かったから、寝る前に“奥様は魔女”を見て、気持ちを中和し、やや特別な一日が終わった。



 寝室のベッドは、月明かりに照らされる。空気の透明度が高い日は、満月でなくとも、夜中に眩しくて起きてしまうほど、明るい光りだ。条件が整うと、読書も可能である。前にも書いたけれど、月も月明かりも好きだし、それを感じられると、嬉しいし、起こされると、妙にハシャぎ、得をした気分になれる。
 月明かりに照らされると、“真実”を感じる。他を見ると、“本物”が見えているように感じるし、自分自身の本性が照らされているように感じる。普遍的であり、また、素性に満ちた投射機のようなもの。これが、僕の月やその明かりに対するイメージである。
 日中の太陽光は、その強い力によって、拡散、吸収、反射と、さまざまにその形を変え、また、さまざまな方向から、光りを伝えてくる。永遠にのびる一本の強い光線は、幅をもり高さを持ち、強弱を持ち、色を持つ。陰が一つできても、違う角度からの違う光りが、陰に被さる。すると、人の持つ陰の暗い部分は、明るく吊り上げられ、他と同化する。また、何色も持ち得る、人の多面的な部分は、大きな光りに行く手を阻まれ、ただ、白っぽく、光るだけになり、やはり、他と同化するのである。
 月明かりには、それがない。弱い微かな光りは、太陽のように回らないし、太陽のように広がらない。光りに太さも力も感じられない、三次元の“線”だ。それに照らされる世界には、光りが当たる部分と、当たらない部分の二つしかない。明か暗の世界である。光りは、真実をそのまま照らすだけで、吊り上げも同化もない。弱い光りが混ざり合わない。だから、誤摩化しが効かないのである。ただ、素直に人や物を照らして、映し出す。見えるものは、本物であり、見ている我々を、正気に覚ます。月は、そんな力を持っている、と、僕は感じる。

  光合成で、意気揚々としている木々や緑
  昼間は、ただ穏やかなだけの猫
  いつもは、我武者らに明るい恋人
  明るいと、ただ刺激的な繁華街・・・

 月に照らされると、違って見えはしないだろうか。日頃見ていることが、すべてなのか。
 そう考えると、月は怖い。そう考えると、月は楽しい。

 (・・・と、たまには叙情的に、1537字)