プロの方向、プロの姿勢

into-the-sky2007-01-11

 朝から晴れている。冷え込みも厳しくはなかった。年明けの空気がまだ残っているのだろうか。晴れが続いているが、依然として透明度が高い空に覆われている。風はまったくなく、窓の外に見える木は、まるで絵はがきのように動かない。その上の奥の小さく飛ぶ 飛行機だけが、ゆっくりと動いて見える

 今日は荷物が届くことになっていた。昼前に運送会社に確認したところ、「15時から17時の間に届きます」「早くても15時ですね」と言われた。仕事も午後は無かったので、職場を早く引きあげ、14:30には家に着いた。15時という言葉を信用せずに30分早く戻った。けれども、既に不在連絡票が入っていて、それを見たら、14時前には配達に来たらしい。結局、確認した意味はなくなり、あらかじめ避けていた事態になった。
 ユーザーが望むのは、荷物が時間通りに着くことであって、単に、早く着くということではない。同じ注文で同じ条件であれば、遅く届くよりも早く届いた方が良いと思う。これは当然な話だ。しかし、すべての人が、どんなシチュエーションでも、何時でも良いから早く届くということを希望しているわけではない。そもそも、ユーザーが時間を確認し、それに対して配達時間を提示するという時点で、“できるだけ早く”から“提示した時間通りに”へと、明確にシフトしているはずである。違うだろうか。
 早く着くことが良いことだ、という道理は、他のどのようなことよりも早さが優先されると考える人や、そのシチュエーションにだけ通用するものであって、それが全体を括るものでも、最良なのでもない。時間が予測つかないのであれば提示しなければよいのだし、提示するのであれば時間通りに、である。事前に予告された時間よりも早い、ということは、予告された時間よりも遅い、ということと同義である。これは、きわめて一般論だし自然な思惑だと思うが。
 まあ、仕方のないことであるのは間違いないし、30分だの1時間だのという、細かな時間だけに関して書いているのではない。そのような“仕事への意識”は理解に程遠いし、他の同業種と比べると、プロのやる仕事として劣って見える、ということである。

 “仕事をする”というスタンスやその厳しさを学んだのは、前職の時である。学生気分が抜けきらぬまま、社会へ、しかも、一般的な企業に比べれば、仕事に対してかなり厳しく細かい会社へと入った。それは、目から鱗であり、青天のへきれきでもあった。それまでの考えをすべてにおいて正された、そんなことの連続であった。それに慣れてくると、以前のスタンスが恐ろしく拙いものであったと認識するようになったし、仕事というものはこうあるべきだと、自覚するようになっていった。もちろん、それ以降が、そして今のスタンスが完璧なわけではない。けれども、少なくとも、社会に出るまで解らず、間違えていた自分の居場所は、前職で、大きく正されたということには違いない。
 それ以降、転職をしても、“仕事をする”という場面に遭遇したとき、また、それを考える必要に迫られたときは、前職での経験を思い出し反芻しながら、一つ一つ照らし合わせて自分なりの答えを出してきた。仕事をするということは、本人のスタンスやスキルに関係なく、周囲から見れば、それは“プロの仕事”にならなければいけないのだと。それが、自然であり、そうであるべきだと。職業によって、あるいは会社や団体によって、細かな手段や方法は違っても、“ユーザーやクライアントに向かう”という、帰着させるべき目標は、例外ないはずである。
 企業に対して、高望みをしているわけでも、過剰なサービスを期待しているわけでもない。お金を払っているのだから、個々の要望のすべてに万全であるべきだ、とも思わない。ユーザーがリスクを負う場面もあって当然である。しかし、少なくとも、向いている先や見ている方向は、間違うべきではないし、まず、方位を定めるということから、仕事の“すべて”は、始まるのではないだろうか。