暗く、そして暗い病院

into-the-sky2007-01-12

 もう晴れ。また、晴れという天気。昨日よりは、雲は多い。
 よく書くことではあるけれど、絶妙な条件によってもたらされている気象現象。その割には、毎日、毎年、季節毎にほぼ同じ現象になる。マスコミは、ちょっとした異変がある度に、“常”に異常気象といっているが、同じ天候の出現の方が、むしろ異常なのではないかと、私は思える。発想を変えて、特異な気象現象が出てきて当然なのであり、比較的今のような異常な天候が続く現在に、我々が生きているのだ、とした方が適切であると思う。宇宙やその中に含まれる地球や大気のメカニズムは、それぐらい壮大であり、膨大な時間というものを抜きにしては考えられない。


 昨日は年明け一回目の図書館へ。小説・評論・専門・エッセイの計4冊を借りた。今年からは、趣味を一つ増やす計画が進行中で、一回に借りる冊数を1冊減らすことにした。といっても、特に「何冊借りる」と決めてはいないので、その都度、例えば読みたいと思う本が5冊あるとすれば、そのうち1冊は次回以降にまわそうという作戦である。そう、ブログへの投稿も同じように少し減る見込みである。


 先週は、見舞いのためにある病院に行った。何年ぶりだったろうか、思い出せないぐらい行っていなかった。自分の用事で3年前に皮膚科には行ったけれど、病院ではなく、医院といった方が相応しい、どこかの小さいオフィスビルだった。
 病院に行くと、その暗さには、少々驚きを感じる。記憶している中では、今まで、5回病院に行ったはずである。明るいと感じたのは、聖路加国際病院の一つだけ。あとは、とにかく“暗い”という印象しかない。世の中に暗い病院が多いと思う人は、私一人だけでないだろうと容易に推測できるほど、その暗さはとても解りやすい。
 「病は気から」というメジャはことわざがある。ことわざ通りだと思う。でも、その病を治療する肝心な病院が、「治そして元気になろう」という気持ちにさせてくれない。むしろ、卑屈になっていくのではないか、と思えるほどだ。経費節減のためか、設備されている照明器具も、間引きされて、すべては点灯していない。たまに入る外光で、すれ違う医者の表情は、シルエットになっていて見えない。増築に次ぐ増築で、かつては光りが沢山入っていたであろう窓も潰され、やっとある窓も、建物の隙間をようやく通り抜けてきた青暗い弱い光りを取り込むだけの能力しかない。テレビ視聴が有料だ、ということも、今回初めて知った。テレビカードなるものを現金で購入し、それではじめて利用できる。通勤電車であっても、車内にいくつもテレビが設置されている時代であるにも関わらず、不思議である。具合が悪い患者の方が、せめて、楽しいテレビだけでも、と、長く暗い廊下を歩き、わざわざ買いにくる姿は、想像するだけで、寂しく侘しい。
 雰囲気が、何よりも優先されるべき、唯一の大事な要素ではない。病院の本質的な存在意味からすると、二義的・三義的要素に過ぎないのかもしれない。けれども、雰囲気に依存しない本質とは、そもそも、それを必要としない人や道理からくる見方によるもので、せいぜい、“病の気”だけでも無くしたい・減らしたいと思っている患者の方々の見方には、立っていないのではないだろうか。かつては、本質だけが問われる時代も、質よりも量が必要とされる時代もあった。しかし、今は、抽象的な雰囲気や表層の域をでないデコレーションであっても、それが、本質を強調し価値を決める判断材料になっている時代だ。直接ではない、“それ”も、人々はもてはやしている。それぐらい、豊な文化になった。その今の外界と、壁に覆われた病院とは、その余りあるギャップを、感じずにはいられない。そのギャップが、患者の胸に大きく重く乗りかかるような気がしてならない。「病院は、こういう所なので、早く治して退院しましょう」とでも、言いたいのだろうか。
 たまたま、自分が見た病院が極端にそうだった、ということもあるだろうし、新しく綺麗な病院もあるだろう。けれども、それが単に新しいという理由だけで、その雰囲気が感じられるのだとしたら、古くなった20・30年後には、それは無くなっているだろう。
 すべての病院が、そして、高級ホテルのような雰囲気を装うべきだとは思わない。けれど、せめて、今の世間ほどの明るさや趣きは最低でもキープするべきだ、とは思う。
 病院嫌いの私が、その想いを一層強くすることはあっても、それを打ち消すような気持ちには、到底なれなかった。