“成人式”のこと

into-the-sky2007-01-08

 昨日は朝から突き刺さるような晴れ。積極的な日差しも、強い風もあった。攻撃的である。眼鏡をかけていなくても、まるでかけているように、遠くのいろいろなものが見える。ずっと見ていると目が疲れそうだ。これだけ強い晴れは、どこかで、別の表現で強さをアピールしていそうだ。やはり、山は大雪なようだ。今日は、穏やかな冬の日。昨日よりずっと落ち着いている。
 晴れている日の昼間は、真冬でも暖房はいらない。日射の暖かさだけで、室温は20℃を軽く超える。毎朝必ず換気のために窓を30分程度開放しているが、閉めるとすぐに暖まる。家中、ソーラーシステムみたいだ。
 温暖化や異常気象と騒がれているけれど、少なくとも、暖冬であれば、暖房が必要なくなる。夏季が酷暑になり、たとえば、外気が30℃から38℃に上がろうとも、冷房能力自体はそう変わらないだろう。冷房が効かなくなるというだけのことだ。けれど、暖冬で10℃が18℃に上がれば、暖房が必要なくなるぐらい、暖かいと感じられる。世界中どこでも、すべて同じ条件ではないし、すべてがそうだとは言い切れないが、その異常気象で温暖化の方が、エネルギが少なくて済むところもあるのではないかと、考える。
 一方では、「役所では晴天の日中暖房をつけない」とか、「一層環境に配慮しよう」などと役人は言っているけれど、結局は電車などを使わず公用車に一人で乗っている。特に、環境へのそれらの対策が間違っているとも、公用車を使うべきではないとも、私は強く思わない。言動のアンバランスさを感じる、ということである。
 
 ところで、毎年この時期になると、成人式での無様な騒動が、マスコミに取り上げられる。これを見ていると、雨が降っている外に出て、「はい、やはり濡れましたね」と言い、「なんで濡れるんでしょうか」と騒ぎ、濡れていく様を「今回も撮影しましょう」と、そんなことを毎年繰り返しているものだ、と散見され考えるが、いかがだろうか。
 マナーが悪い人や自分をコントロールできない人は、世代に関係なくいる。子供はその最たるものだし、30歳代だろうと60歳代だろうと関係なく、いくらでも見受けられる。それを、成人式で騒ぎ立てる若者を取り立てて、「式に出る資格が無い」「まだ幼稚だ」と周囲やマスコミは騒ぎたてる。けれども、しかし、20歳だからと十把一絡げに招待している以上、呼んでおいて、騒ぐのは何事だと、目くじらを立てても、仕方がない。
 それでいて、ほとんどの成人は、静かに行儀良く参加しているだろう。誰もがそうするべきだと考えているからである。ましてや、テレビカメラに撮影されているし、大勢が見ているのだから、いつもに比べて、大人しく過ごそうと考えるはずである。そうした中でも、あえて式典の邪魔をして騒ぎ立てるのは、大勢が見ている場所だから、わざとそのような行動に出るのであって、そのような人間に注意しても聞くはずもない。まあ、こんなことを言いながらも、マスコミでの報道は話題を見つけ、それを誇張して放送しているので、大半の成人式は、少しざわつく程度で、無事に終わっているはずではあるけれど。

 そもそも、成人式の存在そのものに、私は意味を感じられない。私自身、成人式には出席していない。単に年齢が20歳になるというだけで、なぜ、セレモニーが必要になのだろうか、と思う。もちろん、参加する人を否定しないし、まったく個人の自由である。また、久しぶりにかつての同級生に会えるから、という動機自体も否定しないし、考えられないことだとは言わない。形ばかりの式典はやめて、テーマパークに招待するという内容も、むしろ、割り切った姿勢が見えて、解りやすい。けれども、税金の中から予算立てをして、一同に招待するという行為は、形や内容はどうであれ、不思議だと感じるし、首を傾げる。なぜ、第三者がそのような機会を与える必要があるのだろうか。
 これだけ、一見便利になった世の中で、会おうと思えば、いくらでも、会える。連絡手段としても、それこそ、メールやブログなどでも、それは容易い。つまり、会えなかったのではなく、会わなかったということであり、会おうと思わなかった、ということである。気の合う親友同士であれば、いくらでも会っているだろう。
 久しぶりに同級生と会えるからと意気揚々と式典に参加する人ほど、その人の周囲は先月会った人や一昨日メールした人ばかりで、本当に2年ぶりに会った人には目もくれない、このようなケースは決して少なくないだろう、と推察されるが。