一つではない。

into-the-sky2007-01-06

 年明けにかけて、昨日まで結局雨は降らなかった。以前の週間予報では、曇りや雨のマークが多かったと記憶している。時期を鑑みて、あえて悪く出していた予報が外れたようだ。いや、もし、本当に悪く出していたとしたら、本来の予報通りに、当たった、ということにもなるけれど。今回も、「この時期に合わせて、穏やかに保ったので、今日は、荒れますよ」の心か。

 やはり、転じて、朝から雨。音を立てて降っている。この時期にしては珍しい真剣な雨。明け方の気温は3℃で、地表付近の気温としては、みぞれが混じりだす気温に近い。低気圧の全面に残っていた寒気の影響だろう。低気圧本体の雨雲が近づくと残っていた少々の寒気は弾かれるように無くなっていくので、今回のケースでは、雪にはならない。

 関東地方平野部に雪を降らせるメカニズムは、上空の気温・地表付近の気温・低気圧のコース・低気圧の発達具合・湿度がまず第一義的に関わる。これらに、気温の履歴・低気圧全体の等圧線の構造や形が関わる。かなり絶妙なメカニズムとバランスで決まる。単に気温だけを見ると、5℃前後でも雪が舞うこともあるし、0℃前後であっても、雪にならず、雨や凍雨になることがある。この絶妙であり、二つの境界条件の狭間に位置することの多い関東地方の平野部での雪は、少々の気候の変化による影響をもろに受ける。
 一方、この時期の北日本日本海側の雪も、定常的とはいえ、単純なメカニズムではない。さまざまな要因があるけれど、雪を降らせるいわゆる“筋状の雲”は、やや暖かい日本海上を冷気が吹き通ることで、発生する。つまり、温度差のもたらすものであって、日本海の海水温度が高くなければ、発生も発達もしない。同じ寒気の南下でも、まだ、完全に海水温度が冷えていない12月中旬と、度重なる寒気の南下や海流の影響で海水温度が冷えきっている1月下旬では、筋状の雲の発達度合いが違い、当然、温度差が大きい12月の方が、発達し、大雪を降らせる。気象現象において、何かの一つだけに影響されるということは、ない。


 数日前は、近くを流れる川の源流探しに出た。家から20分ほど歩くと、その川がある。家の最も近い所の幅は2メートル程度の小さいもの。地図ではその最寄りのポイントから300メートルほど上流で、消滅している。けれど、そこからいきなり“川”が始まるのではなく、実際にはさらに上流にも、その源は続く。
 周囲は一面、田んぼが囲み、その水路としても、利用されている。その水路は丘陵地の下の付け根の際を進んでいるもので、各所でその丘陵地から水が湧き下を通る水路に流れ込んでいる。上流に向かっていると、その湧き水を過ぎるとしだいに水量が減り、流れが緩やかになる。さらに進むと、水路が細かく枝分かれをしているのを、いくつも見つける。その分岐点を過ぎる度に、少しでも流れの多い方へと選び進んでいった。しばらく歩くと、谷が終わる部分に近づいた。地形的に見ても、そろそろ源流に行き当たるだろうと思ったところで、残念ながら、険しい草とぬかるみに行く手を阻まれ、その先に進むことができなくなってしまった。まだ、その先にも枝分かれの収束がありそうではあったけれど。
 最後、いや、最初までは行けなかったが、一つの川が、安定的な一つの源にだけよるものではない、ということを、改めて実感したわけである。

 人に関しても、たとえば、ある一人の他人に対しての影響力を感じても、実際にそれだけの力で自分の何らかが大きく左右されるということに、直接は繋がらない。この人と一緒にいると、「自分はこうなる」、あるいは、「既に、こう影響されている」と考えても、それは、自分の周囲の環境に働く力の一つであって、それ自体にすべてが動かされるわけではない。物心ついてからの環境や出来事のすべてに影響されている。何かを、あるいは、誰かを“選ぶ”という動作の必要に感じても、それを選ぶという環境を作り上げたのも本来の自分であり、選び出される結果も、本来の従来からの自分が、そうしたのだ、ということである。
 これを選んだから必然的にこうなるとか、この人と一緒にいると自分はこうなって行くだろうとか、そのような他位的で受動的なのではない。他に左右されるそのような環境下で、自分がそれを選択しているという、主体的な動作に基づくものであり、その結果が“今である”ということでしかない。これを選ぶと、自分の何かが大きく変わるだろう、自分の人生が左右されるだろうと考える道理は、その環境下で、自分自身が主体的に“そうするだろう”という、予想の一つでしかない。
 大切であり、重んじられるのは、その大きな一つであろうと、他の小さい何かであっても、それぞれを見られるという環境であり、それぞれに対して考えられるという環境であり、そして選べるという環境である。
 何かの、誰かの“カゴ”に入るのではない。自分という一つの“カゴ”から、どこに向かって出て行くか、ということである。そして、他の何かは、少々手招きをしたり、後押しをするということ、それだけだ。
 手招きをしてくれ、どこを飛んでいても、見守って、たまに注意を促してくれるという人、そんなパートナーは、大事にしたいと、私は思う。