静かな数日

into-the-sky2007-01-02

 昨日の朝は冷え込んだ。この冬一番だったようだ。日中も消極的な日差しで、寒い一日。一つの区切りには相応しかったのだろうか。
 昨日は、珍しく親の家で朝、新聞を見たけれど、とにかく、広告が多い。このままだと、単に一年で一番大安売りをする日になるような気がするほどだ。元来、この時期、何日間も店がどこも休みになるので、その前に買いだめをしていた。おせち料理も保存が利く物を、作り置きしておくということから始まったものだ。
 私の子供の頃は、商店街はどこも、4〜5日程度は休んでいた。コンビニエンスストアもないので、本当に買いだめをしておく必要もあった。身近に商業地が少ない地方では、さらに真剣に、その必要があったはずだ。今は、コンビニエンスストアは年中無休。その他のスーパーマーケットや商業店舗も、一日だけ休むか、一日も休まず、営業時間が多少短いぐらいだ。だから、ほとんどその必要がない。もっとも、日頃の買い出しも、その日の晩ご飯のため、毎日近くの商店街に行くよりかは、2〜3日に一回、駅の近くや車で行く店舗でまとめ買いをしている。つまり、定常的に、買いだめするようになった。家からごく近くの、いわゆる小規模な商店街が廃れていったのも、それが原因の一つだろう。郊外には、広すぎるほどのスーパーマーケットができ、“駅なか”“駅ちか”がもてはやされている時代である。
 増して、今は、年明けの大安売りや福袋を求めて、年明け早々から、店や商業地は人でごった返しているわけである。別にこれらを否定しない。売る人がいて、買いたい人がいるのだから、なんの問題もない。けれども、以前は、いつも賑わっているところが、皆シャッターを閉ざし、人もほとんどいなかった。閑散とした風景を見て、正月らしさを垣間見ていた。静かだから、いつもは聞こえない音も聞こえてきた。そんな日常とは違う異質な世界で、そして、それを何となく思いながら、どことなく、何となく、いつもと違う場所やいつもと違う時間をながめ、年明けの情緒に浸っていた。それは、薄くなってきているだろう、とは思う。
 そう考える一方では、歳末から年明けにかけての風景は、上に書いたような“不便さ”からくるものだ、とするのであれば、そうでなくなった今、むしろ、薄まっていくということ自体が、自然なのかも知れないとも考えるけれど。繁華街に繰り出し、カウントダウンを大勢で騒ぎ祝い、新聞チラシを持って買いまくる、という行為の方が、むしろ、浮いて見える。
 どんな新年の迎え方をしようと、まったくもっと個人の自由であることは言うまでもないが、単なるセレモニーではなく、一人一人が、もっと静かに想い感じるものであり、そんな数日間であるべきだろうと、私は思っている。

 今日は、朝から、くもり。薄いながらも布団があったせいか、昨日ほど冷え込まなかった。
今日は朝から長風呂に入った。家を新築したときに、勢いで買っておいた浴槽の中で本を読めるグッズ(名前解らず)を、初めて使うことにした。浴槽の両方の淵に引っかかるような細長い台のようなものである。ゆっくりと50分ぐらいは、本を読みながら、浸かっていただろうか。窓も全開にして、遠くの景色も楽しみながらの風呂だった。本も濡らす事なく、無事。風呂に入ってまで読書というと、とても、能率の悪い日常を送っているのか、と、自ら思わなくもないけれど、それなりに気持ちが良いと感じるからだと、自分に言い聞かせているようないないような。とりあえず、その“台”は、しばらく、浴槽に置かれることにはなりそうである。

 去年のこの時期と大きく違うところは、テレビを見ていないということ。昨年の4月頃から、テレビを自発的に見なくなった。以前からも、さほど見る方でもなかったけれど、この時期は、見たい番組を探すように見て、HDDレコーダに溜め込んだりもしていた。親の家にいるときは、電源が入っているテレビを眺め見ることはあっても、自宅ではまったくつけない。ここまで変わるのものかと、自問自答している。
 けれども、テレビなんて害だ、とか、見るだけ損だ、とは思っているわけでもない。見たくないというよりかは、他にやりたいことがあるので、そちらを優先しているだけだということでしかない。そもそも、大して関心もないけれど、紅白の勝敗も、駅伝の結果も、いつでも一瞬に解る便利な時代だからこそ、なのかも知れないが。