十把一絡げ

into-the-sky2006-12-31

 今朝は氷点下まで冷え込んだ。この冬初めて。去年はこの時期までに数えきれないほどあったから、やはり、暖冬傾向である。就寝時はホット敷きシーツを弱く付けている。朝起きたときの、布団のかぶり具合によって、布団を出るよりも温度計を見るよりも先に、冷え込みの度合いが解る。今朝は、顔は布団の中だった。


 年賀状は、今日の午前中にすべて作り終わり、ポストに投函した。些細なトラブルで(年賀状製作にとって)なかなか進まなかったが、作り始めたらスムーズだった。数年前に、世の中で、年賀状は形式儀礼的に過ぎると、止める動きが進んだ。企業や団体によっては、通達を出して自粛を呼びかけているところもある。
 昔は、すべて、手書きだった。枚数は多い家庭や業務関係は印刷の業者に注文していた。手間をかけるか、コストをかけるかの選択だった。だから、送る枚数も吟味して少なくしていた。それが、家でも、簡単に製作できる画期的な機器が開発されて爆発的に売れた。手間は多少かかったけれど、作る楽しみみたいなものは味わえた。すると、私もそうだったが、「誰に送ろうか」と考えるようになり、自然と枚数が増えた。それが、今は、家のPCとプリンタで、簡単に大量に作れるようになった。コンビニエンスストアや町中のスーパーマーケットでも、小口の印刷が手軽に頼めるようになった。気軽に沢山作れるように、世の中が変わり、送る枚数は一段と増えた。すると、今度は、多過ぎだし、減らそうという流れに変わった。便利に大量に製作できることを望んでそのような環境になれば、「意味が無い」「形式的だ」と言い始め、「止めよう」と言う。なんとも勝手な話である。
 私は、年賀状自体に特に意味は感じてはいない。ただ、何らかのコメントを添えて送られてくると、嬉しいとは思うので、自分でもそれをしているだけの話だ。簡単な近況を知らせること、相手に対しての、心を巡らせる気持ちを、年賀状というものに乗じて伝えているに過ぎない。だからそれが、もちろん、年賀状で無くても良い。しかし、天の邪鬼な私は、世の中が、止めようという流れになると、俄然、「続けよう」と思ってしまう。確かに形式儀礼であり、それでは意味がないというのは解る。だから、皆で一斉に止めようと呼びかけるのも、それ自体に、否定はしない。
 けれども、そもそも、年賀状における形式儀礼というのは、印刷しただけのものをやり取りするだけに終始するという、その手段や方法の結果として招かれたことである。そしてそれは、すべてではない。現に私の周囲には、毎年、板を彫って版画にして、達筆な筆で宛名を書いて送ってくれる人もいるし、一人一人にコメントを加えて送っている人もいる。このような姿勢は、形式儀礼だとは、とても思えない。つまり、そのような人もそうでない人も、両者存在しているのであって、十把一絡げに形式儀礼だと 決めつけるのは、おかしい。
 こう考えると、“皆で一斉に”止めようという大げさな話ではなく、書くコメントも思いつかない相手には送らないということであり、煩わしさが先行するのであれば無理して送らないという、単純な行動に帰着する。
 言うなれば、「形式儀礼的な年賀状はやめよう」である。

 ちなみに私は、一枚をプリントアウトしている間に、次の人に向けたコメントを考えて、それを打ち込み、また、プリントアウトをする、ひたすら、その繰り返しで製作している。プリンタに印刷ジョブを貯めていけるので、実際にはプリントアウトよりも先行してコメントは作り終わる。やや、大変だけれど、時間はかからない。今年はアクシデントで、写真がすべてなくなってできなかったが、来年は、デザインそのものも、一人一人凝ったものにするつもり。


今日は、ポストに行ったついでに、近くの大型電気店に行った。購入したiMAC用のスピーカーを購入。内蔵されているスピーカーはそれなりに高品位だけれど、JAZZを聞くには、流石に辛さを感じた。20000円前後の出費を覚悟して、Macのwebサイトに載っているようなものを買うつもりで店に入ったら、一辺が20センチ程度の正立方体の形をしている国内メーカーのものを発見。一つの“箱”でL/R+ウーハーの3つのスピーカーを内蔵するもので、6000円のもの。なかなか音も良く、線も少なく持ち運びも簡単で便利である。
 予定や目的にも達し、音楽鑑賞に身を浸らせ、久しぶりの長風呂にも体を浸らせる、これ以上にないと感じられる、至福な一日だった。