将来への強要

into-the-sky2006-10-21

 今日も雨は降らない。曇り時々晴れ。世界のどこかで、長雨が続いているのだろうか。そちらに熱心なあまり、日本のとりわけ関東地方までは気が回らないようだ。そうだ。そういえば、私が働く職場の自分のデスクには、毎日のようにゴミが降ってくる。直径0.5〜1mm程度の黒い固まりだ。朝出勤すると既に机の上に落ちているし、昼間置いた物の上にそれが落ちているということは、ほぼ一日中降っているのだろうか。もう数ヶ月は降り続いている。吹き掃除はやや面倒だけれど、あまり気にしないので、対策も考えていないし、管理の担当者にも特に伝えていない。エアコンか清浄機内の何かが回ることによって降ってくるのだけれど、ゴミを落とすのを止めようということには、気は回らないようだ。まあ、そのうち・・・。


 一ヶ月ほど前だろうか。家の掃除中にあるFMラジオ番組から聞こえてきた。その番組のリスナーからの投稿を、英語なまりの女性パーソナリティが、さらりとしなやかに読んでいた。
 「・・・大学進学を奨めていた親の意向に背き・・・」
 「・・・自分で好きな道にすすむべく、専門学校に通い・・・」
 「 ・・・親からは学費はもらえず、それでも諦めきれず・・・」
 「・・・決心した夢に向かって、一人で自活して頑張っています・・・」
 言葉の使い方は若干違ったと思うけれど、このようなこと話していたと記憶している。
 内容のわりには、そのパーソナリティの声や喋り方で、随分とソフトに明るく伝えられていた。しかし、本人のその言葉は、まるで、澄み切った青空の下、湖の畔を穏やかにゆく鴨が、何かに悲しく静かにむせび泣く、そんな情景をイメージするものだった。親子のこのようなやりとりは時代に関わらずよくあることだろう。だから、内容を聞いてもそれ自体には驚かなかった。けれども、話し方と持ったイメージとのギャップが、私に強烈な印象をもたらした。
 さらにその一ヶ月前には、父親からの、時に暴力をも伴った勉強の強制が嫌になり、その環境自体を消し去ろうと、放火殺人を犯した少年のニュースも耳にしていた。二つの出来事は、鮮烈なまでに、オーバーラップし、頭に響いた。どちらも、親から子供に対する将来への強要だと感じたからだ。 親による子供の将来の強要は、その姿や度合いを変えて多く存在していると観察される。
 断っておくが、子供に勉強を奨めることすべてがその強要と決め付けているわけではない。むしろ、特に中学までは勉強の必要性を説くことはするべきだろう。自分で決心した目的のためには、少なくとも中学校までの義務教育期間終了までの基礎学力程度は一般的に必要だろうと思うからだ。



 学校で勉強することの目的意識や、将来へのそれらの道筋を、工作に例えると解かりやすいと思うが、いかがだろうか。
 中学校までは、工作をするための準備を学習する。準備とは、工作に必要な道具を揃えておき、その道具の使い方や注意点を事前に調べて知っておくことだろう。
 高等学校での勉強は、工作の手順を学習する。細分化されたそれぞれのパーツの組み立て方、出来上がったバーツを配置していく方法や順番を調べて理解しておくことだろう。 
 専門学校では、まず一つの工作に的を絞り、マニュアルによって早速実際の工作を始め、完成させる。この手順を繰り返し、早くスムーズに終えることができるように訓練を重ねる。完成予想図も描くだろう。
 大学では、材料の質を学び、組み立ての理論を知る。なぜその材料を使わなければならないのか、なぜその手順で組み立てなければならないのかを、知識として学習することだろう。
 さらに大学院では、他に効率的な方法や完成形のデザインがないか、あるいは実際に組み立てて、その完成度を分析する。耐久試験をしたり、まったく違う発想で新しい方策を探ったりして、研究することだろう。
 そして、子供の頃、将来何を作りたいかをイメージする。それが将来何になりたいかという“夢”だ。


 ここで意識し考えなければならないことは、大きく三つある。
 一つに、何を作りたいかは、日々変わる可能性が高いということ。自分でこれを作ろうと考えても、それはその時々で異なるだろうし、他人の何かや実際の完成品を見て心変わりすることは、大いに考えられることだ。
 二つに、作るための手段や方法は一つではないということ。合理的な手段と、それが万人に適切かどうかは根本的に違う。その人にとって最適かどうかが重要なのであって、それは環境や過去の経緯で異なってしかるべきだろう。
 三つに、完成までの期間は、人によって異なるだろうということ。完成度に関わらず、早く作ることに主眼を置く人もいるし、時間はかかっても、良いものを作ろう、他と違うものを作ろうと考える人もいるだろう。
 三つのどれも共通して言えることは、それらの妥当性の有無や高低も、選択の賛否も、目的の良悪も、どれを問うものでもなく、決められるものでもない。
 けれども、しかし、“親による将来の強要”とは、もっぱら、この三つに対して、向けられることだ。

 つづく・・・かどうか・・