心配の前倒し

into-the-sky2006-10-22

 はい。今日も晴れです。気温も特に気にする必要ありません。他に何も言いたいことはありません。終わり。
 ・・・なんて、こんな天気予報がたまにあっても良さそうだ。そんな天気が続いているということ。決められた時間内で何を話そうかと、困らないのだろうかと、思ってみたりみなかったり。天気の予報官も、若い頃は下積みの期間があるのだろうか。「今日は簡単だから、君が予報文を書いてみて」とか、そんなやりとりがありそうだけれど。しかし、明日は難しいというときは、・・・


 まどろみの夕方、一面を橙に染められた障子。
 それが、時を感じさせないほど、静かによける。
 すると一人の老人が現る。
 白髪の長い髭をたくわえ、杖を支えにしている。
 浮遊している光の粒で奥が見えないほどの大きな座敷を、歩む。
 それは、空気が動かないほど丁寧でしなやかなものだ。
 腰を下ろし、そっと目を閉じ、和紙に筆をゆっくりと滑らす。
 正座をした部下が静かにそれを受け取る。
 「先生、お見事な予報文でした」
 周りからは歓声がわき、拍手に包まれる。


 ・・・なんて、こんなことがあったりして。間違いなくないだろうが。



 以降、昨日から続いてしまっている・・・


 何を作りたいか、つまり何がどうなることを望むかは、日々常に変化するだろう。作るための手段、つまり将来への進み方や方法は、100人いたら少なくとも100通りは存在するだろう。いつ、それが完成するか、つまり、自分の夢や目標がいつ成就するかは、その本人でもさえも推測の域は出ないし、いつまでに成就するべきか周囲が断定できことではない。
 子供から聞いた将来の夢を、永続的なものだと、不変的なものだと勝手に解釈し、周囲を見て散見できる程度のこと、あるいは、親である自分の経験から推測されることを他の人にも相通ずるものと断定し、これこそが目的の手段であると一心不乱に強調する。「こうしなさい、ああしなさい」「このためにもっと勉強しなさい」「まずここに進みなさい」と執拗に押し迫まる。これは、単に勉強の必要性を進言することと根本的に異なる。


 嫌な環境から逃れたいという目的で起きた事件はもちろんのこと、大学進学をしないと学費を出さないと主張した親のケースも、親が自ら希望する道に進みなさいという将来の強要であることは、間違いないだろう。
 そもそも、親による子供への将来の強要は、親の“心配の前倒し”がメカニズムの根底にある。この先懸念される心配事は、先に済ませたい。親である自分が早く安心したいというものだ。しかし、これは一概に悪いとは言えない。誰もが自分の将来に向けて、少しずつ楽になりたいと思う気持ち、気がかりなことは先に終えて、この先はできるだけ安泰でいたいと思うものだからだ。ごく自然な意向だろうし、誰もがそう望む権利があるだろう。例えは食事のとき、美味しいものを後に残しておこうと思う、そんな些細な欲求と大して変わらない。
 それでは何が問題なのかというと、将来を思う気持ちの度合でもなく、それを押し通そうとする手段でもない。なぜ、自分の子供の将来に対して不安に思うのかという、根本的なもの、あるいは、その考え方だ。

 
 何かに不安に思うということと、何かを解かるということは表裏一体である。不安に思うその心理の起点には、すでに、あらかじめ解かり推測できることが存在しているということだ。そしてそのあらかじめ解かることは、ほとんどの場合、これから怒りうる事態に対して、「恐らくこのままだと駄目だ」という悪い予測だろう。
 例えば、朝の出社時、電車に乗る前は、特に不安に感じることはない。けれど、乗ってから事故の知らせが入ると、途端に沸いてでるように不安の気持ちが生じる。時間通りにつかないかもしれないと心配する。しかし、現実、事故はいつでも起こりうるし遅延もする。すると毎日毎回常に不安に思って当然なのだろうが、実際そんなことはない。可能性は常に感じていても、それが今日これから起こるかどうか解からないからだ。起きてから、もう遅れるはずだと解かるから、そこから不安がスタートする。遅れて欲しくないという淡い期待を多分に含みながらだ。


 ・・・まだ少し、続きそうだ・・・