勉む 強る 学ぶ

into-the-sky2006-10-19

 今日も晴れ。当たり障りのない天気。天気を意識しなくなっているだろうか。日中は体を動かすと多少汗ばむ。日に日に次第に空気が濁りだしていて、今日は全体的に白っぽく見える。光の拡散を感じる。


 今までの人生を振り返ると、勉強らしい勉強をしてこなかったなと思うことが多い。もちろん、勉強するということの定義にもよるけれど。
 朝晩の通勤時に、テスト期間になると高校生や大学生が参考書を片手に何かを記憶している。図書館に行くと本を何冊も積み上げて。もくもくと勉強している。そのような動作を勉強するというのであれば、私は今まで一回も勉強したことがないと言っても、それは過言ではない。「勉強するということは、このようなことを言うのだ」と改めて実感し、それをしている学生を見ると「よくやるな」と思う。
 高校生の時、一学期の日本史のテストは36点だった。自分で「これは少しまずいかな」と少し考えて勉強をした。二学期は68点、学期末テストは97点だった。誰に言われたのでもない。あくまでも、淡々と自分で思い、そしてテスト勉強らしいことをしただけだ。これにおける勉強とは、単に、年号や流れなどを記憶したということ。それをしたから点数が上がった。自分で考え、何かを解決したり何かの道理が明確になったりしたのではない。自分の将来にプラスにならないであろうことを仕方なく覚えた、という程度だ。だから満足もしなかったし、嬉しくもなかった。
 それに対して地学は常に90点や100点だった。しかし、これもその意味でのテスト勉強はしていない。この分野が一番人間の営みや地球の存在・意義に近いだろうと思ってはいた。以前から興味があった分野だった。だから授業の内容は一回ですべて頭に入った。多分、面白いと感じてはいたのだろう。100点を採ると先生から誉められたりクラスメイトから冷やかされたりしたが、嬉しいとも何とも感じなかった。テストのための勉強は、していなかったからだ。
 予備校に通っていたときも、多少、勉強らしいことをした。しかし、決して、“らしい”の域をでない。その分野は政治経済だった。これも、まずは、生活に身近に存在し得るものだと思ったからだ。あとは、その講師氏の人間性が好きだった。有名予備校の講師にありがちなのだけれど、知識の披露や教え方が上手であることの他に、とても人間臭くて自己主張を感じるそんな人だった。それに共感したのだ。一義の目的は、その講師氏の話を色々聞くことだった。その延長上に、もしくは、それに融合されるような形で、政治経済の知識を得る動作が存在していた。結果的に勉強になった。けれど、勉強が目的ではなかったということだ。
 大学も私はほとんど行っていない。明確な目的や意義を感じられず、積極的に行きたいとは思わなかった。だから受験勉強もほとんどしていなかった。いわゆる高学歴だということが、その後の人生において、ある程度の影響を与えることは常識的には知っていた。金持ちになれるのかもしれないと。確かに有名一流大学を卒業した人が政治家になったり、経営者になったりもしている。しかし、それでは、その大学に入ると皆がそうなれるのかというと、そうではないだろうと、小学生の頃から感じていた。となると、高学歴がその必要条件でも十分条件でもない。そのようなポストになれるかどうかの差異は、抽象的に、その人の人間性にあるのだろうと、当時から考えていた。発想を変えると、つまり、有名大学に、そのような人間性をある程度あらかじめ有する人が、割合的に多く存在しているのだろうと、推測していた。それらを越えて大学の意味、通うことの意義を強く感じる事ができれば、もっと勉強し大学に身を置き、通い続けていただろう。けれど、あいにくと、そのような認識は持っていなかった。
 「勉強しなくて済みました」と自慢しているのではないし、過去を悔やんでいるのでもない。誰かに、こうした方が良いと奨める気持ちもまったくないし、世間ずれ、学歴ずれしている人に対して、云々言うつもりもない。そんなポリシーに関係なく、簡単に勉強し一流大学に入れれば、それで何の問題もないだろう。
 私は、ただ、親に先生に言われたから、周りがこうだから、または、一般的にそのようにした方が良いと考えはしなかった。それらを柔軟に受け入れながら子供の頃を過ごし、我慢してでも勉強しようという気持ちには、ならなかったということだ。
 けれど、誰の何のための勉強なのか、勉強の本質とは何かは、幼いころから常に考えてきたつもりだし、これからも、そのようなスタンスでいようとは考えている。