無理をしない趣味

into-the-sky2006-08-16

 朝から蒸し暑い。台風でいて収束されていた亜熱帯の暑く湿った空気が、その集まりから開放されて周囲に低く広く放出されている感じ。釈然としない梅雨の終わりから予想通りの“弱い夏”が続いている。例年の夏の、あの抜けるような暑さや攻撃的な暑さも、東京の今年はあまりない。
 体調は大分回復した。小さな風邪をひいていたと後で判明。こんな中、仕事は沢山あり、スケジュール的に多忙。お盆の中日までは、四日間で10時間程度の睡眠時間。外の仕事でのホテル生活で強い空調で喉もやられたらしい。ただ、弱くしないで寝てしまっただけのことなのだけれど・・・。
 体調が戻ると、戻る前は、いかに悪かったかが解る。人間は常に比較相対で物事や道理を認識するのだと実感するときだ。体調が悪い中は悪いことに気が付かず、多少の無理をしているのだろう。過労がたたって、重病になったり死を迎えたりするメカニズムはここにあるのだろうと思う。

 ところで、私にとって仕事は趣味とほぼ同義だと思っている。
 一般的に、仕事と趣味はほとんどの場合、分けて考えられる。“仕事”を主体的に見ると、仕事つまり労働は、自分が生きていくため、あるいは、家族を養うため。趣味は娯楽のため、あるいは、労働によって蓄積されたフラストレーションを取り払うためだろう。また、“趣味”を主体的に考えると、労働は、その目的の一つとして、その後の趣味を身勝手に敢行するためにされるものといえるだろうか。
 どちらの見方にも共通していえることは、労働はそれによる対価が発生するが、後者はそれがない。また、趣味を楽しむには、時間とお金が必要になり、必然的に、結果としてそれらの消費にあてられることになる。それぞれを、生むもの・使うものと区別すれば、二つの境界は明確なものだろう。
 しかし、“自らやりたいこと”が基盤として存在して、どちらもその延長線上の出来事だとすれば、むしろ、供給か消費かの、結果的・表面的な違いでしかない。どちらも時間の消費は変わらないし、目的を達成することによる満足感も、私にとっては変わらないものだからだ。趣味の一つは、それにより対価を得られ、違う一つは、消費しかされないという考え方だ。
 やや、見方を変えて、両者を違うものとして捉えた場合、“無理をするかどうか”で区別することもできる。
 趣味には没頭する。食事をする時間も睡眠の時間も削ってすることだろう。空腹になっても食欲より趣味の方が楽しければそれをするのだろうし、睡眠の欲求より楽しいものが勝れば、寝る間も惜しんで・・・とは、よくあるシチュエーションだろう。一方、仕事はそうはならない。勤務時間が終われば、仕事も終えて帰ろうと思うし、もちろん、寝ないで打ち込もうとは思わない。ただ、仕事自体に哲学を持っていれば、その範疇で最大限に熱心に取り組むということだろう。
 ここで、やや懸念されるのは、私のように、仕事も趣味もほぼ同義で捉えている人にとっては、日頃から無理が続くことになるということ。ただ私の場合の無理とは、周りと比較しても些細なものだろうが、今の多少の無理によって、後になって趣味そのものに打ち込めない事態に陥ることになってしまうとすれば、それは考えなければいけないと思う、今日この頃である。
 あとは、趣味の延長にある仕事の量を減らし、対価を生まない趣味にかける時間をいかに増やすかが、自分自身に対しての課題である。