ファッションと挑戦

into-the-sky2006-08-06

 ここ3日間ぐらいじりじりと暑い。まさに“夏”といった感じ。都市部は弱い南よりの風が吹くと霞む。気温以上に暑く感じられる。一軒家独り暮らしは、この時期、エアコンのタイマー動作が欠かせない。難しいのは何時に設定するか。年々おおよその帰宅時間が読めるようになったが、稀に無人の状態で一晩付けっぱなしになることも。(笑)

 この時期は外でのイレギュラの仕事が多い。定常的な仕事に退屈しているわけではないのだけれど、異文化に触れる機会にもなり、バラエティに富んで面白い。
 先日はあるファッションショウの仕事。肌の露出がかなりある水着のような衣服を纏い、颯爽とあるいてきました・・ではなく、当然スタッフとして参加してきたわけである。“何系”というのかはまったく解らない。私はテレビも見ず、都市部の繁華街にもあまり行かないので、異文化というか別世界といった感じか。20代前半までの、東京の原宿や下北沢辺りを歩いている人が近いだろうか。来客の人々の格好を見ると、「今はこんな時代なんだ」「へー すごい」、まあ、こんな感想で全体的なイメージを説明するしかない。
 このような書き方をすると、他のいわゆる“好み”に対して閉鎖的と思われるかも知れないが、そんなことはない。自分にも他にも拘りも好みもない。自分は無頓着系だと認識している。ただ、人によって異なる好みとは、どのような道理というかメカニズムによるものなのかは大変関心があるところ。そして、どんなファッションでも似合う人は羨ましいなと思う。
 そのイベントには、有名人も多数出ていたようだけれど、私にとっては、すべて初見。個々への関心もなし。そんな私が、どのように有名かどうか、また、その度合いを認識したかというと、客が上に持ち上げる携帯電話の数だ。ゲストが登場するたびに携帯電話のカメラで撮影するからだ。ステージに出てきてから、携帯電話が上に持ち上げられるタイミングが早ければ、今話題のタレント、徐々に沢山上がってくれば、以前から知名度が高かったタレント、人気度が低いタレントに対してはその数が極端に減る。こんな具合だ。
 このような業界に関係するところで仕事をしていて「こんなのでいいのか」を自問自答しているが、「冷静に客観的に業務をこなせるから、いいんだ」と言い聞かせながら、自分に了解の今日この頃である。

 今、検討していることと言えば、毎年恒例の“炎天下!限界に挑戦!長時間独り散歩”をいつにしようかということ。小さいペットボトルだけを持ち、比較的速いスピードでひたすら歩き続けるもの。こうして年に二回程度は体を強制的に酷使して限界に近づくことをしている。別にSとかMとか、そういうことではない。限界を知って自分をコントロールするための尺度としているだけのことだ。 
 大人になると、生活は楽になる。炎天下での体育の授業もないし、憂鬱な宿題に負われることもなくなる。他人による何らかの強制や抑制は明らかに減り、自分本位になれる時間や場所が多くなるということ。そんな生活を続けていると、時として“刺激”を受けたくなる。そこから新たに見出されるものや得られるものがあるわけではないが、たまに“激辛〜〜”を食べたくなる。そんな衝動と同じようなものと解釈できるのだろうか。
 去年は歩くコースの判断を誤り、二時間半歩いたうちの最後の30分、水道の蛇口も飲みのもの自動販売機もないところを歩いてしまった。しかも上り坂でヨロヨロになり、上りだか下りだかも解らなくなった。「あ〜〜、こうやって意識を失って倒れていくんだ」と思いながら必死に歩いた。ようやく自動販売機がみつかり正気に戻った。
 体は自分の体を守るためにさまざまな形で警告してくる。「そろそろ限界に近づいてきました」と言わんばかりに、足が痛くなったり目の焦点を合わなくさせたり頭を痛くしたり。頭・・いや、脳がそれを利かないと違う形でまた警告しようとする。脳がどの時点で「やめようか」と思うのかが、その後の程度や結果を変えるファクタとなる。警告に気づかずそれを続けたり警告を解っていても他のファクタが優先されたりすると、回復不能な事態に陥るのだろう。