安全と想像力

into-the-sky2006-07-31

 梅雨が明けた。いや、明けたとみられると発表された。しかし、今年の関東地方は涼しい。朝晩は肌寒いぐらいで、窓を開けたままだと寝冷えしそうなぐらいだ。雨を降らせる湿った風の供給が少なくなって前線は弱まっているものの、潜在的な前線の北側で北の冷たい高気圧の圏内なのだろう。日中の暑さに比べて朝晩の涼しさはまさに快適。秋になるまで、ずっとこのままでいて欲しいなとも思うけれど、冷たい高気圧も強い日射自体に次第に暖められ、南の暑い太平洋高気圧と一体化する。ここ東京も徐々に暑くなっていくのだろうか。
 梅雨と夏の関係、・・と言ってもどちらも夏であることには変わりないが、一般的な認識での両者を考えると、お互い補完的な役割を果たしていて、これがある日本は恵まれているなと思う。先に梅雨がないことを想像すると、きっとその後の夏は耐え難いものになってしまうと思う。梅雨のジメジメした雨ばかりの日が暫く続き、ほぼ誰もが梅雨明けを待ち望み、夏を堪能したいと願う。また、春の晴天から梅雨、梅雨から真夏へと、梅雨が境界となっていて春と夏との定義を明確化する。「夏が始まるんだ」と思うが、「春が始まるんだ」とは思わない。秋も同様だろうか。冬は“降雪”という象徴的な出来事があるので、若干地域によって認識は違うだろう。梅雨がなく徐々に気温が上がるだけであったら、“真夏”や“夏の晴天”との認識は軽薄なものであり、またそれを望むこともしないのではなかろうか。さらに、冬季に降雪をあまり伴わない地域では、夏の渇水にも重要であり、梅雨があっての真夏の晴天ということを、改めて感じさせられる。

 夏休みの休日の夕方のニュースでは、毎年のように“水の事故”の報道が相次ぐ。海や川では沢山の生物が毎日当然のように生活を営んでいる。陸地でもそれは同じだ。人間だけが事故にあう。魚は溺れないし、鹿は山で遭難しない。人間が作った道路でひかれて死んでも獣道で事故にはあわない。人間以外の動物は警戒心が強いのだろう。何かを感じ取り、違いを感じ取りそれを事前に交わしたり受難を防いだりするのだ。いや、むしろ、人間の警戒心がなさ過ぎで、人間以外が普通なのかもしれない。自分は大丈夫だ。安全だ。失敗しないという稚拙な自信が、それを招いているのだろう。頭と体、情緒と肉体、感覚と運動が乖離している証なのだろうか。
 これだけ毎年事故が起き、報道されているなか、どうしてそれを自ら防げないのか。なぜ、過信して沖まで行ってしまうのか。潮に流されるということをなぜ強く意識しないのか。大人はなぜ子供に注意を促し、とりわけ“人”にとっては海や水が危険だと喚起できないのか。幼い子供が一人で勝手に海に行って受難したり、大人が心臓発作で溺れたりするのは仕方がないのかも知れない。しかし、この混雑のなか、家族みんなで海に出て危険な状況に自ら陥り、そして遭遇し死にいたるのだ。また、マスコミは、常套句のように、「人間は自然には太刀打ちできない」とか、「自然が猛威をふるった」などという言葉で締めくくるが、それにも疑問だ。自然は常に自らに対して平静であり、それに人が順応できていないだけだろう。
 自分が経験していないことや実際に遭遇しないことに対して、とかく人は、過信する傾向にある。知識がないことに関しての想像力に乏しい傾向にあるからか。
 例えば、ライフセーバーの人達は海の怖さや水の怖さを熟知している。一度危険な目にあった人も同じだろう。途中まで、何かをして、「でもこれ以上はあぶない」と判断するとそこでやめようと思う。それをやめないで続けた末の結果を想像できるからだ。また、手段や方法の間違えにも気づき行く末を案じて修正したりやめたりする。そうやって危険を回避したり、結果を少しでも良いものにしたりするものだ。
 知らない解らないことはやらない。何かを“やる勇気”よりも“やめる勇気”を重んじる。
経験していないことは想像力を張り巡らせる。そうやって不慮の事故を防ぐしかない。