変わって見えること

into-the-sky2006-07-29

昨夜から今朝にかけては少しずつの分割睡眠。ちょっとした理由があってしっかりとした長時間睡眠はしなかった。今朝も5時前にはベッドから出て掃除をしたりこの日記を作ったりしている。この少し変わった様子はおよそ二週間後まで何日かありそう。
 早朝から活動しているせいか、朝の涼しさを心地よく感じられる。家々の屋根には朝露がしっとり。夜も朝も扇風機で十分で、高原に避暑にきているような気分を味わえている。
 西日本は梅雨明けしたところもあるらしいが、関東地方のここ東京は依然として一応梅雨の中。日増しに徐々に、暑く真夏に向かっていく感じ。何かのアクセントで「梅雨明けしました」と空が教えてくれる夏もあるが、今年の関東地方はソフトにマイルドに夏へと収束していくのだろうか。

 今の“何か”を変えようとするとき、〓内容も外見も大きく変える・〓内容は大きく外見は小さく表現・〓内容は小さく外見は大きく表現・〓中身も外見も少しだけの4パターンに分けられる。
 店舗などのリニュウアルはローコストで効果的にするため、〓のパターンが多用されている。企業や団体の人員削減は社員の反感を避けるために〓のパターンだろうか。国の内外の政治やその仕組みに関することは、大きく変わることを恐れるいわゆる政治家とそのアピールの粗末さで〓のパターンが多いと散見される。〓のパターンは、周囲のシステムや環境の中では、ほとんど無い。まあ、せいぜい、恋人が変わった女性がそれに近いぐらいだろうか。
 人に関して一般的に言えることは、若いもっぱら子供ほど変化に敏感でそれに追従することが簡単に行われ、歳をとるほど、大きな変化には疎くまたそれについていけないということか。子供は現状を「良い」とか「適切だ」と判断したり、「悪い」とか「不適切だ」とする固定的な概念に関してそもそも気薄であり適応能力も柔軟で高い。一方、子供に対して大人はどうかというと、現状が最適だと積極的に思わないが、変えることは面倒だとは思う。今の時勢や仕組みに釈然としない気持ちを抱きつつも、しかし「変化よりはまだまし」と思うのだろう。“形骸化”という言葉や状態がここから生まれている。
 何もかも変えれば良いというものでもない。確かに人を支えたり生活の基盤に寄与したり文化の方向性に関わったりする政治や公共的な仕組みを一度に大きく変えるのは現状難しいだろう。また、道理もなく今を鑑みずただ我武者羅に変えれば良いというものでもない。理由があって変える必要が生まれるはずで、とにかく変えようという発想は稚拙に過ぎる。
 しかし、現状を維持しようとする力や余裕があるからこそ変えられる力もあるのではないか。必要に迫られて何としても変えなければならないという時は、すでにその力がないということが多い。かつての百貨店をめぐる事がまさにそれの象徴だろう。大事なのは、要するに“タイミング”だ。そのタイミングを見誤った時点で、何かが一つ終わる。これは、一人間においても、一企業においても同じだろう。
 今となっては古き良き伝統も、元々は無かったものである。また、いつかのタイミングで何かを変えて、あるいは新しく構築されてきたものでもあるということは忘れてはいけない。
 繰り返しになるが、人は成人を迎えた後は次第に保守的になり変わることが困難になる。しかし、同時に客観視が容易くなれば、状況に応じて「ここではこのようにした方が良い」とか「このようなスタンスでいた方が良い」と、少なくとも表面的な部分だけでも変わることができたり、それぞれを使い分けできたり、そうする能力も備わる。こうした時の煩雑さや面倒さといえば、せいぜい、変わった時にその理由を相手に伝えるという程度のものではないか。それは企業に関しても同じである。内容を抜本的に変えられなくとも、見せ方や格好は変えられるだろう。とかく姿勢が問われる現在では、それだけでもかなり有効な手段だといえる。
 単に表面的な部分だけに拘ってそれが良いとしているのではない。少なくとも、その程度の許容は持ち合わせるべきだし、それを許容する柔軟性も必要であると言いたい。
 そんな外見や格好だけ変えても・・・と考える人ほど、中身を変える柔軟性を持っていないと思うが、いかがか。



昨夜から今朝にかけては少しずつの分割睡眠。ちょっとした理由があってしっかりとした長時間睡眠はしなかった。今朝も5時前にはベッドから出て掃除をしたりこの日記を作ったりしている。この少し変わった様子はおよそ二週間後まで何日かありそう。
 早朝から活動しているせいか、朝の涼しさを心地よく感じられる。家々の屋根には朝露がしっとり。夜も朝も扇風機で十分で、高原に避暑にきているような気分を味わえている。
 西日本は梅雨明けしたところもあるらしいが、関東地方のここ東京は依然として一応梅雨の中。日増しに徐々に、暑く真夏に向かっていく感じ。何かのアクセントで「梅雨明けしました」と空が教えてくれる夏もあるが、今年の関東地方はソフトにマイルドに夏へと収束していくのだろうか。

 今の“何か”を変えようとするとき、〓内容も外見も大きく変える・〓内容は大きく外見は小さく表現・〓内容は小さく外見は大きく表現・〓中身も外見も少しだけの4パターンに分けられる。
 店舗などのリニュウアルはローコストで効果的にするため、〓のパターンが多用されている。企業や団体の人員削減は社員の反感を避けるために〓のパターンだろうか。国の内外の政治やその仕組みに関することは、大きく変わることを恐れるいわゆる政治家とそのアピールの粗末さで〓のパターンが多いと散見される。〓のパターンは、周囲のシステムや環境の中では、ほとんど無い。まあ、せいぜい、恋人が変わった女性がそれに近いぐらいだろうか。
 人に関して一般的に言えることは、若いもっぱら子供ほど変化に敏感でそれに追従することが簡単に行われ、歳をとるほど、大きな変化には疎くまたそれについていけないということか。子供は現状を「良い」とか「適切だ」と判断したり、「悪い」とか「不適切だ」とする固定的な概念に関してそもそも気薄であり適応能力も柔軟で高い。一方、子供に対して大人はどうかというと、現状が最適だと積極的に思わないが、変えることは面倒だとは思う。今の時勢や仕組みに釈然としない気持ちを抱きつつも、しかし「変化よりはまだまし」と思うのだろう。“形骸化”という言葉や状態がここから生まれている。
 何もかも変えれば良いというものでもない。確かに人を支えたり生活の基盤に寄与したり文化の方向性に関わったりする政治や公共的な仕組みを一度に大きく変えるのは現状難しいだろう。また、道理もなく今を鑑みずただ我武者羅に変えれば良いというものでもない。理由があって変える必要が生まれるはずで、とにかく変えようという発想は稚拙に過ぎる。
 しかし、現状を維持しようとする力や余裕があるからこそ変えられる力もあるのではないか。必要に迫られて何としても変えなければならないという時は、すでにその力がないということが多い。かつての百貨店をめぐる事がまさにそれの象徴だろう。大事なのは、要するに“タイミング”だ。そのタイミングを見誤った時点で、何かが一つ終わる。これは、一人間においても、一企業においても同じだろう。
 今となっては古き良き伝統も、元々は無かったものである。また、いつかのタイミングで何かを変えて、あるいは新しく構築されてきたものでもあるということは忘れてはいけない。
 繰り返しになるが、人は成人を迎えた後は次第に保守的になり変わることが困難になる。しかし、同時に客観視が容易くなれば、状況に応じて「ここではこのようにした方が良い」とか「このようなスタンスでいた方が良い」と、少なくとも表面的な部分だけでも変わることができたり、それぞれを使い分けできたり、そうする能力も備わる。こうした時の煩雑さや面倒さといえば、せいぜい、変わった時にその理由を相手に伝えるという程度のものではないか。それは企業に関しても同じである。内容を抜本的に変えられなくとも、見せ方や格好は変えられるだろう。とかく姿勢が問われる現在では、それだけでもかなり有効な手段だといえる。
 単に表面的な部分だけに拘ってそれが良いとしているのではない。少なくとも、その程度の許容は持ち合わせるべきだし、それを許容する柔軟性も必要であると言いたい。
 そんな外見や格好だけ変えても・・・と考える人ほど、中身を変える柔軟性を持っていないと思うが、いかがか。