ドライ・暖・冷・思いやり

into-the-sky2006-06-26

 今日はゆっくりと午後出勤。朝からの雨は家を出ると止まっていた。湿度も十分で厚い雲に覆われ薄暗い昼。雨が降っていないのが不思議なぐらいの天気。方々で雨を降らせるのが忙しくて手が回らないらしく、若干仕事がおろそかになっている雰囲気。本州では梅雨後半に突入したところで、梅雨前線達も足並みを揃えて日本のほとんどを覆ってくる。「これからがいよいよ梅雨本番だぞ」「待ってろよ」と言いたげな、一日。
 私はジメジメととても嫌うので憂鬱。ちなみに、人間関係や仕事もジメジメは嫌。視覚的には、陰影が弱く、ほとんどのものがマイルドに見られるのも、目に優しいような気がするし、さまざまなものが、強調なく自然で見られるのもよいのだけれど。(この前も書いたかな) でも体にまとわり付くようなメリハリの弱い空気は体感的に嫌だ。人やさまざまな事柄に対しても、“カラっ”とドライでいたいなと思う。
 “ドライ”と言うと、何か冷たいイメージが共に付いてまわる。“ドライである・淡白な人だ”と、“冷たい人だ・思いやりがない”などという言葉の意味を誤解しているドライでない人も多いのだろう。それはいかがなものか。
 “ドライ”や“淡白”とはその人のスタンスの話。拘らない・あさっりしているという意味だろうか。それに対して、クールや思いやりは、そのスタンスの先にある一時点での手段の状態を指し示すものだろう。つまり、物事に執着しなくても拘らなくても、何か一つのことに思いや力を手向けることは可能だろうし、一人の相手に拘らなくてもその一人に思いやりを持って接することが可能だろう。一方、ドライなスタンスでなくても、人に冷淡な態度をとる人もいるだろう。
 全体的なスタンスだけを見て、ドライだから冷たく思いやりがない人だと言っているのを聞くと、この人は真の拘りや思いやりがどういうものなのか、知らない人なのかな、と思う。

 話題を変えて。
 サッカー。興味が無い方の部類に入る私も、日本戦は三つとも見た。(めずらしいのです) 試合の翌日に、自分の周りや職場でのサッカー話に加われないのは特に構わないのだけれど、感動が共有できないのには一抹の寂しさを感じるからだ。(結果的にそのような場面があるかないかは別にして) 。
 視聴率も最高50パーセント前後まで上がったらしい。内容に関わらずテレビを殆ど見ない自分が、強い意志によって見る番組は、ドラマやスポーツといったジャンルに関わらず、視聴率もトップランクに入るものが多い。あたかも“日本国民総サッカー旋風吹き荒れる”みたいなマスコミの取り上げられ方をしている中、あまりそのような事に興味がない私は、非国民かも・・・などと思ったりもする。見たくても見られなかった人もいるだろうし理由は色々あるだろうが、その私が見ても視聴率が50パーセントとは、私のような興味のない人も半分近くは存在しているとしてもそう間違いはなさそう。
 そもそもマスコミによって、半ば強引に作り上げられたようなサッカー旋風だろうから、自分という人間は、変わり者ではなく、“一般的な人間”であることが実証されたなと、少し微笑んだりホッとしたりと真冬にシチューを食べたような心の安らぎを覚えた。(・・・と言ったりなんかして 笑)
 敗退に対しては色々と言われているようだけれど、サッカーに興味がない私が試合を見て感じたことは、対戦チームと比較してテンポやリズムがないなということと、チームカラーの“青”ってどうなのかなということ。特に、色に関しては色々と深く思うことがある。
 それは、なぜか。

長くなっているので、また、いずれ・・。