いじめで頼る

into-the-sky2006-06-27

 小学生の時、友達に嫌がらせをしたりいじめたりしているのを見ると、「この人は大人になったら、どんな人間になるのだろう」といつも思っていた。そして、「一体いつまで子供じみたことを続けるのかな」とも思っていた。
 一般にいじめている人を見ると、「性格悪いんだな、この人は」「哀れだな」と思う。しかし、いじめたいと思っても、道徳観念的に色々考え、結論として「しない方か良い」と思い、それが先んじたりまた、相対的にそれを強く思ったりして、いじめないのだとする人が、かなり多いのではないか。つまり、実際に行為としてはいじめることはしなくとも、いじめたいと思う人は多く、いじめる人の気持ちも解らないではないとの見方をするのだろう。いじめられるのは、いじめられる本人にもそれをさせる原因があると言われるのは、そこに理由がある。
いじめる人とそうでない人とを比べると、他に対する依存度が高い・他に対しての出力が多いなと思う。
 自分の考えが他と比べてどうなのか、他と比べて合っているのか間違っているのか、自分が周囲の中でどのポジションに存在しているのか、自分の行為に他はどう思うのか、自分の考えや気持ちが他に受け入れられるものなのかどうか・・・こんなことの判断のさまざまを、価値基準を、他に任せて反応を見ているのだろう。常に他に影響を与え他に影響されないと、自分の存在を誇示できない、存在意義を主張できない、気の毒な人格の持ち主と言える。
 一方、いじめない人は、それぞれを自分で考え、他の弱い反応から自分で想像し、自分で納得するように理解し、自分で価値基準を見出し、自分で合理的に都合よく解釈し、自分の居場所を作る。他に委ねることなく自分の存在を誇示できる。他によって過度に影響されることを必要せず、影響そのものに重畳な価値を置かないので、他にそれをしない。
 こう考えると、自分に自信がなく自立していない人間は、他人への依存が必要になり、自分に自信があり自立している人間は、他人からの依存を頼りにしないので、他人にも依存しない。
 他人への依存度で鑑みると、いじめられている人間は、ほとんど他人に依存しない人間であり、いじめている人間はほとんどを他人への依存によって物事を成立させる、つまり、両者は対極的な存在と言える。度合いで言うと、中間に位置する人間がいじめもいじめられもせず、依存度が強いほどいじめる傾向になり、依存度が低いほどいじめられる傾向になるということだろうか。
 大人の社会でももちろん依存の度合いが高い人間はいる。子供の頃とは違う形でいじめは行われる。職場の誰かの陰口をたたいたり誰でもするような失敗を棚に上げて中傷したりと、子供の頃のそれよりかは陰湿なものだろうか。そのような事が自分の誇示に効果的だと考えるからで、他へ依存して自分の優位さや存在感を訴えかける手段としているのか。
 やはり、見ていて哀れだなと思う。
 そのような人に私自身が憤慨したり、被害意識があったりする訳ではない。また、すべてにおいて、依存が悪だとしているわけでもない。
 しかし、他人に依存しても、自分自身の存在の誇示には直接繋がらないということ。
 他への依存をある部分では断ち切らないと、そうでない人間には己の存在を受け入れてもらえないということ。そのジレンマからは抜け出せないということ。
 そして、私自身、しっかりとした自己を築き、平静でいたいなということ。