報道の不快

into-the-sky2006-06-24

 近頃、ある事件の容疑者の逮捕前の映像をテレビで見た。朝目覚まし代わりに電源が入っている時のことだ。
 容疑者(撮影時点では一人の市民)を取り囲んでの取材シーンだ。沢山のテレビカメラやレポーター達が磁石に寄り添って動く砂鉄のように、ひしめき合い、うごめいている。
 はっきり言うと、哀れで醜い。不快だ。
 何か特異な事件が起きると決まって繰り返される、取材攻勢だ。
 事実を伝えようとする、使命感のようなものも当然持ち合わせているだろう事も想像できる。しかし、あそこまでエスカレートしているのを見ると、彼らをあのような行動に引き寄せているものは、一体何だろうか。
 一般に何かを撮影するという場合、自分だけの記録ビデオでもない限り、誰かにしっかりと見てもらいたいという意志、その場にいない人の変わりをしてあげたいと欲求は、マスコミなどの報道関係者でなくても、誰でも多少に関わらず持っているはずのもので、特別な意識ではない。それは良い悪いではなく自然なことである。しかし、マスコミ達のあの状況はそれだけのことだろうか。
 彼らのその行動によって、被写体となっている容疑者や被害者・関係者が嫌がるということは、経験的に解らないはずがない。それを十二分に知っていて、あえてしている、わざとしている事だ。
 それには、過度にそして間違った思い込みや違う目的があるのに他ならない。「一般大衆は絶対見たがり知りたがっている」、「一般大衆は強い断罪意識を持っている」と思い、「我々がそれを代わって達成するのだ」と思い込んでいるのだ。
 では、大衆の心理はどうなのか。
 常に繰り返されているこのような“あり様”は視聴者も繰り返し見ている。そして、人権やそのものの大事さも解っていて、それらの意識も強まってきている。自らが取るべきスタンスも自覚しているだろう。だから、シビアに且つ、冷静に、行き過ぎた取材攻勢を見つめている。首を傾げるように「あぁ、またやっているな」と思い、対象者の境遇に関わらず、犯されるべきでない・適切さに欠いていると見ている。
 また、普通の情緒の持ち主であれば、誰もが不快に感じ怒りに感じることをしていて、予想通りの反応を示したらまるで情緒不安定な異質な人格だとするのは、理不尽極まりない。
このようなことも、視聴者は感じ考えているだろうし、不快にも思っているはずだ。
 つまり、マスコミは、視聴者である一般大衆の意識や姿勢を誤解していて、代行もしていない。
 もっと見たい詳しく知りたいと思うことは、当然視聴者心理の中にあることだろう。それは否定しない。過度か否かの境界も目に見えるものでもなく定かでもない。しかし、取材対象者の立場を第一に考え、視聴者の思惑を正しく理解すれば、伝える側の取るべきスタンスは必然的に導き出されるだろうし、少なくとも、不快感を与えるようなことにはならない