個性の主張

into-the-sky2006-06-23

 これが個性だと主張している人を見ると、「え?どんな個性?」と思う。
 これが信念だと主張している人を見ると、「何が信念なの?」と思う。
 一方、「個性的な人だな」と思う人ほど、個性を主張しないと思う。
 「確固たる信念を持っているのだな」と思う人ほど、信念を主張しないと思う。
 特に最近思い始めたことではない。おそらく小学生ぐらいからそう感じ思っていたことだと記憶している。だから、最近の私の身近にいる人に対した具体的なことを指し示してはいない。また、単に個性を主張しすぎている状態に対して否定しているのではないのだけれど、そんなあからさまに、個性だと主張しなくても・・・と思っているのだ。
 そもそも“個性”とは個々人が持ちうる“信念”に基づく言動の結果だろう。言い換えると、自分という存在の延長線上にあるものであって、自分と乖離しているものではない。従って、特に意識的に個性的に振舞う結果が“個性”なのでななく、自分らしさの主張が他人にはそれが個性的だと写るのではないか。つまり、主体的に個性を掲げるものではなく、結果を他人が判断し、その人の個性だとするものだと思う。
 そこで、私は自分の個性や信念を訴えかける人を見ると、「この人、自分の個性とか信念とかに自信がないんだろうな」と感じる。自信がないから、相手に伝わっているかどうかも解らない。自信があるか無いかはとは、そのものがあるのかどうか・そしてそれはどの程度のものか・他によって壊されないものかどうか・・そんなことだろうか。それぞれ相関するもだけれど、そのどれか一つが思いとして欠けても不安に思うはずだ。
 本人が個性を汚されるとする他人の言動とは、大抵、その個性や信念が伝わらないゆえのものだと思う。よく解らないからそれを疑問に感じたり聞いたり何か促そうとするというそんな作用が働いてのこと。つまり伝わっていないから、個性や信念と思えず、よってそれに踏み込もうとするのだ。個性や信念とは他人との間に介在するものでなく、根底には踏み込むべきでなく、踏み込むこともできないはずだと思うからである。
 確固たる個性や信念を持っていない、あるいは他に伝える事ができない人ほど、他に言及される。言及されるから不安に思い、それを誇示し主張する。こんなメカニズムだろう。
 それに対し、自分の十分な思考と言う仮定を経て作り上げられている個性や信念とは、他に影響を与えるが、他に影響されるものではない。影響されないという自信があるから、それ自身を強く誇示する必要もない。それが受け入れられなくても、少々努力した後、「相手は解らなかった。解ってもらえなかった」と思うぐらいである。 

 その人の個性や信念とは、他に影響を与えるものであっても、それは良い悪いではない。それ自身の質は他人が言及するものでもない。また、個性や信念を他が解るか否かも問題ではない。伝える必要があるかないかでもない。
 ただ他人に依存しないとそれが誇示できないのであれば、それは何とかした方がいいだろうということ。
 その時々の状況やスタンスによって変わるものは、個性や信念ではなく手段や方法だ。それを誤解して誇示するものではないということ。