真面目は真面目か

into-the-sky2006-05-31

 “まじめ”漢字で書くと“真面目”。

 言葉は、それを連想すると、漢字であるものと平仮名であるものと二つある。この“まじめ”を連想すると平仮名になる人は少なくないだろう。
 幼いころから、この言葉を平仮名で目にすることが多いからなのではないか。
 連想するということは、自分の中の道理や情緒を基にしたものであるはずで、導き出されるものは、自分による自分にとっての自然な思考となる。そう考えるのが自分にとって“自然だ”と思うから、そう連想されるわけで、このような意味においては、つまり、平仮名で連想するのが自然だと解釈しているわけである。
 今は、文章をつくる手段はパソコンのワープロソフトがよく用いられる。平仮名でタイプすると、漢字が変換候補に出てくる。“真面目”もそうだ。漢字としての“真面目”も、その知名度がかなり高められたのではないか。

 面白いのは、この言葉、“まじめ”と読む真面目と、“しんめんもく”と読む真面目と二通りあるのはご存知だろうか。
 そして二つは意味が違う。
 “まじめ”は、真剣・本気・誠実という意味。“しんめんもく”は、ありのままの姿・まじめである様という意味だ。
 前者は、具体的な姿勢や本意を表しているのに対し、後者は、抽象的な、状態や様子を表している。
 視覚的なイメージとして解釈すると、“しんめんもく”という全体集合の中に、“まじめ”という部分集合が含まれている、こんなことになるか。
 ここで、解釈の難しいところは、当然ながら全体集合の中に部分集合も補集合も含まれていること。
 ありのままの姿とは、客観的にまじめであってもそうでなくとも主体的な言動や態度のことを指し示しているはずであり、つまり客観的に“まじめ”な様に見えなくても、“しんめんもく”なのだ。この、まじめでなくともありのままの姿が補集合にあたる。

 そして、“まじめ”という言葉も考えるとそれはまた複雑だ。
 まじめとは、真剣や誠実である意から、それは、主観的なものであり、他の、言い換えれば客観的な視点によるまじめとは必ずしも一致しないだろう。
 「まじめに考えなさい」や「まじめに取り組まないと・・・」という指摘をされても、その指摘の対象となる自分が主観的に真剣であると思い、誠実であるとするのであれば、それは本人にとってまじめな状態なのである。まじめな姿とは、それは人それぞれであり主観だ。人のあり様とは、他から決められるものでもなく客観的な他に依存されるものでもない。つまり、自分で主観的に“まじめ”だとの意識であるならば、それはまじめなのだ。
 整理すると、“まじめ”“しんめんもく”の両者の中には、主観的な“まじめ”という存在、客観的に“まじめ”という存在、まじめでなくても、ありのままの姿という存在。この三つの意味や状態が交錯していて、“しんめんもく”の中にある、ありのままの姿とまじめな様との二つは矛盾している。

 私は、少なくとも“しんめんもく”の意味から、まじめである様と取った方が解りやすいのではないかと思う。言葉が解りやすくなければならないとは思わないが。
 でも、もし、その意味が取れた解釈をするのであれば、私は将来の自分の子供に、
 「常にしんめんもくでいなさい」と言うだろう。
 「まじめでいなさい」ではなく。