額縁と絵

 私がかつて某放送局で、某番組の某カメラマンを担当したときの話。

 ある一連のカメラワークで、セット中の額縁に飾られた“絵”を撮影した。ちなみに、テレビジョンの場合、正しくは撮像なので、以降撮像と書くことにする。
詳しくは、私は額縁撮り切り(額縁込みの映像という意味)のサイズで待ち、自分のカメラの映像がオン・タリー(オン・エアされるという意味)になると、そこから、出演者は構図の中に納まるサイズまでズームアウトするという動き。
 本番を終えた後、ある先輩の某氏から、このような指摘を受け注意された。
 「額縁撮り切りのサイズからだと、その中の“絵”がよく見えないでしょ」・・・と。
 私は「・・・、・・・?」
 つまり、言われた瞬間絶句したのだ。
 頭の中で首を傾げた。けっして頭が傾いたわけではない。(笑)

 私は、額縁に飾られた“絵”は、額縁自体が、言わば絵と一体化されたものであり、それがすなわち“絵”なのだ、額縁と絵ではなく、額縁+絵が、つまり“絵”なのだと、そう考えていたからだ。
もちろん、その絵の作者が、個々のユーザーの額縁のデザインまでを吟味はしていないだろう。どのように自分の描いた絵が飾られるのか、期待はあるだろうが、そこまでは考えてはいない。
 しかし、テレビ界、美術のセクションに、“小道具”さんがいる。この人が、セット内の装飾品を選定して設置して、デザインするのである。この人は、自分のデザインとして、絵と額縁を考え選びその場所に掲げたのだ。
 このことからも、やはり、額縁に飾られてる絵は、それ自体が“絵”だと私は考える。
 もう一つ、私は、セットデザイン中の、それ自身を演出しているその絵の存在を表現したかったのであって、どんな絵なのかを表現したかったわけではない。
 こんな理由から、私はそのようなカメラワークにしたのだ。
 これを某氏に話しても、理解してもらえなかった。残念だ。

 実際の視聴者は、そんな細かいこと気にしないだろう。その“絵”が映る時間はほんの数秒であるし。一カメラマンのこだわりでしかない。
 そう、自己満足だ。

 この時代、デザイナーや製作者の思惑に反した意匠やその表現が、横行していると私は感じている。
ユーザーや所有者の価値観も当然あるだろうが、それが、時としてデザイナーの存在意義を否定することになりかねないことは、深く考えたいところだ。