解る・知る・認める

into-the-sky2006-05-18

「わかってあげてよ」
 「わかってあげないとだめだよ」
 「なぜわからないの」
 「なぜ、わかってあげられないのだろうか」

 家族と友人と・・・他人に対して、自分に対して、言ったり、言われたり、自らに言い聞かせたりと。常套句のように話したり聞いたりする言葉だ。

 また、人の気持ちや心に対しての言語表現だ。
 何か機械が壊れたりする。エンジンがかからなくなった自動車でもいい。
 夫婦の会話。
夫「ねえ、エンジンかからないよ」「どうしよう」
妻「あら、そうなの」「どうしたのかしら」
夫「困るな〜」「なんでだろ」
妻「・・・・・・」
夫「オイ」「ちゃんと働けよー」
妻「こわれちゃったんじゃない」
夫「勘弁してくれよ」「スクラップにしちゃうぞ」
妻「わかってあげてよ」「車も大変なのよ」
機械に対して“わかってあげてよ”とは、普通、言わない。
 冗談で言う事はある。でも、妻は真剣にそう言った訳ではない。自動車に対して擬人化した表現をしただけで、本心でなはい。本心だとすると、まさによくわからない、怖い妻。
 壊れたパソコンに対しても、ほぼ同じことが繰り広げられるだろう。

 機械は気持ちや意思を持たない。わかろうとする対象がないのだ。
 ただ、機械に対しても、わかる事はある。
 仕組みや動作の方法などだ。
 しかし、今の時代、機械とは、目的や使用方法が違うだけの、ブラックボックスだ。確実にそれをわかっているのは、設計者やエンジニアだけだろう。わからなくても一応操れる・使える、これが今の時代の“機械”。
 つまり、機械に対して、わかってあげる必要がない。でも、誰でも調べれば、勉強すれば、完璧にならないとしても、ある程度は簡単にわかる事が出来る。それは精神とか気持ちではなく、完成結果としての道理や仕組みなどであって、それぞれが意味を持っていて、それらは完成品として明確なものだからだ。

 これまで、私は、機械に関して、全てにおいて、あえて“わかる”という言葉を使った。でも、これは適切だろうか。“知る”や“知りえる”の方が適切なのではないか。
 本当に、わかるのか、わかったのか。
 知るではないか、知りえたのではないか。
 “わかる”と“知る”。
 違いは一体、なんだろうか。