テレビをやめる

 私は、実は、いわゆるテレビ業界に間接的に関係する仕事をしている。している筈である。しているかも知れない。だから必然的にその製作過程も熟知している。

 そんな私は、実は、テレビをほとんど見ない。
いや、テレビはリビングと三階と寝室に置いてあるので、テレビという機器自体は毎日のように見ている。電源を入れて、主体的に番組を見ていないと言うことだ。(言わなくても解るか)
 子供の頃、自分はいわゆる“テレビ人間”だと思っていた。確かに今よりは遥かに見ていただろう。でも当時友達とテレビ番組について話をすると、ついていけないことも結構あったのを記憶している。今考えると、どうやら、見過ぎていると言えるほど、見てはいなかったらしい。多分。テレビ人間ではなかったのは確かだ。

 ところで、テレビ人間っていうと、首から上がテレビの“箱”になった人間を連想してしまうが、それだとテレビ自体は鏡でも使わないと見る事ができないので、正しくは、顔の前にテレビがくっついている事を連想しなくちゃいけない。かなり不恰好だ。

 小さい頃は、テレビが生活の中心と言えるほど(やや大げさ)、私にとって大きな存在であった。当時は子供心にも“情報の箱”との認識があった。さまざまな番組を視聴したはずだが、番組のジャンルとその違いは、情報のジャンルの違いとして見ていたに違いない。そこから、世俗的な知識などを得たつもりであった。世の中の怖さを知ったり、楽しさを知ったり、色々な人間がいるという事も知ったし、つまり、情報という窓の中で、世の中の色々な事を知ったつもりになっていたのだ。もちろん、情報の中の情報として、子供の頃から、ニュース番組も良く見ていた。今思えば背伸びしていたのだろうか。
 しかし、テレビ番組・・・テレビメディア自体の本質的な情報も、そのテレビ自身から、あるいは他のメディアから、さらに自分がそれに携わる事によって、知り得た。その知りえた情報は、私のテレビメディアに対する思いを、信頼から懐疑へと変えた。だから次第に“テレビ”に対する興味が薄れ、見たいと思うことが歳と共に減っていったのだ。そして、今は全くと言ってよいほど興味がなくなった。私の中のその信頼度が完全に無くなった結果だ。
見たいと思わなくなった。

 ちなみに、今、テレビは、目覚まし時計代わりに朝一時間、その他は映画をたまに見るぐらいで、一週間の中で、自分の意思でテレビの電源を入れて見る時間は、一時間あるかないかである。見ている時間ではなく、電源が入っている時間だ。
 パソコンが大画面になってDVD映画の迫力ある音を堪能できるようになれば、テレビは捨ててもいいぐらいだ。