雷鳴と感銘

into-the-sky2006-05-07

 中に入ると、大きな驚きは・・・ない。

 テレビなどのメディアでさんざん紹介されているせいだ。今の時代、楽しみは自分で見るまで・・・としていても、その思いを突いて見えてしまう・解ってしまうそんな時代だ。
 テレビの視聴覚メディアは、高品質だ横長だと言ってもリアルな視覚情報から比べると半分もそれを伝えてはいない。これには色々な要因が付いて回るだろうが、我々のそれぞれの感覚とは、切り離され個別な道具の一つずつとしてのものではなく、どれも密接に繋がりあうというか重畳しているというかそんなイメージが正しいのだろう。
 どこかに訪れたとき(ここでは、表参道ヒルズの中とするが)、代表してまず見た目・・・つまり視覚だろうが、それだけでなく、来店者がそこに沢山存在すれば、その人達の出す音が聞こえるだろうし、空調などの様々な設備が生み出す音がし、それをほぼ同時に感じているのだろうし、もちろんそこには臭いも存在し微妙な振動も感じ、温度も感じるだろう。それら全てを感じながらその場の雰囲気を認識したりそれぞれが互いに複雑に影響しながら、一つの全体の固まりとして、そのもの自体を感じるのだ。それが、人もいない場所、動きがない場所であっても、その静けさや空気感のようなものも、しっかりと感じ取るのではないか。
 それら全体の雰囲気、つまり人間の五感全てを総じて、感銘を受けるのではないか。
テ レビ等のメディアは、当然だがそれらを達成しえない。情報としての視覚や聴覚。あくまでも分断された情報達であって、固まりではない。そんな中でもさすがに初見では多少の感動もあるだろう。しかし、それは、肉眼の初見よりも随分と薄く小さいものであるはずだ。
 しかも、印象の度合いもそれまでの経緯によってかなり違う。
 静かで穏やかな天候時、いきなり近くに落雷があれば、それはそれは口では言い表せないぐらい驚く。しかし、遠くから雷鳴が聞こえ徐々にそれが近づいてくれば、近くに落雷があっても、そう驚かないだろう。だから、表参道ヒルズも、訪れた時が全くの初見であるならば、その感銘と言ったら、いかばかりのものか。

 そう考えると、蛇口を捻ると出る水のように、そこここから情報が伝わる、こんな時代、感動の度合いやその数が小さく少なくなってきているような気がする。「事前に見なきゃいいじゃん」・・・確かに見なきゃいい。それもまだ可能な時代ではあるが・・・。

 解りすぎる、知りすぎることは、人間にとって、必ずしもプラスだけに作用しないと言うことは確かなようだ。