まず、創造より想像。

into-the-sky2007-05-01

 昨日と代わって、静かな朝だ。風も弱いし、日差しもない。気温は6時ぐらいから少しずつ下がり続けている。今日から5月。連休3日目の火曜日、カンとペットボトルのゴミの日だ。
 そう、昨日は、久しぶりに燃えるゴミを捨てた。2週間程度の間、自宅には寝るために帰るみたいな日が続いていたから、ゴミもほとんど溜まっていなかった。もちろん、その間少量ながら食事もしていたが、残さず食べているので、早く捨てなければいけないゴミもなかった。動いているときは解らないけれど、後になり暇になると、その時のスケジュールを反芻するように思い出す。同様に、振り返ってゴミの量を見ると、どれほど家にいなかったのかが、解る。


 人間は、その“場”にいる間、その“時”である時期、客観性は失われがちである。その場に着く前、その時に至る前は客観であっても、その環境の中で事態を迎え解決していく中で、次第に主観的になっていく。判断するということは、その大きさに関わらず主観的思考が伴うし、判断する量が増えるとルーチンワークが増え、客観よりも主観に頼る量が増す。するとそのうち、客観と主観の切り替えをしなくなり、観察眼は、両者の境界すら持たない、主観的なものになっていく。当然、それには時間も関係していて、何かに没頭する時間が長くなると、それ以外の時間も、没頭する何かの惰性で進むようになる。客観的思考を巡らす時間が減ると、必然的に、さらにそれが進むことになる。
 睡眠時間が6時間だとしても、18時間中隙間なく、たとえば、仕事をしているわけではないのに、その余裕がなくなるというのは、密度が高くなると、その引力に引き寄せされるように、観察眼が引かれ収束するからだ。

 新入社員が数ヶ月後に、仕事のつまらなさや忙しさに嫌になり辞めていくことも、それらが大きく関係している。自分がその世界に入り、入る前の客観的思考が減り、際立つ忙しさを前にそれに圧倒されていく。もちろん、単に、入るまで知らなかった現実的な部分を知り鬱に感じ、予想との違いに気がついて、やる気がなくなることも多い。けれど、そのような状況になったとしても、その前の客観的視点による面白さみたいなものは、決して消えてはいない。相対的に少なくなっても、それは必ず残っている。入社後は、しばらく、主観的に面白いと感じられる内容にはならない。上司の意向にそった仕事に終始し、その手助けをしているようなものに近い。そこには客観的要素は加わらないし、主観的な面白さもほとんどない。だから、当初の客観的な視点による面白さを認識しなくなると、ただひたすら、忙しなく面白くない仕事だと、思うことになる。
 しかし、客観視というものは、想像力で補うことができる。その場その時、直接見えなくなっても、少なくとも想像することはできる。それによって、自分の周囲を想像でき、それによって自分のポジションが想像できる。今、自分は、他の周囲に対して、どのような位置関係にいるのか、を想像し考える。すると、そこに見えるものは、周囲も自分も見える、つまり第三者の観察眼になり、それを傍らから見る人間や、たとえば職場の上司の視点にもなりうる。適切でないたとえかも知れないが、ほぼ、2次元の世界に生きるアリを、人間が上から見下ろしたときに、「こっちの方が餌に近い、これの方が大きい餌だ」と思えるのと同じように、客観的視点でいれば、その場その時で、どのように行動すれば良いかも、解りやすいだろう。
 楽しい工作の部屋なのかも、美味しいお菓子の国だろうとも、その世界の中の視点だけでは、それに気がつかないかも知れないし、それを忘れることもあるだろう。けれども、想像し、自分がどこにいるのか、その世界との位置関係を観察することで、今も、そして、これからの先も、見やすくなる。
 先に見えるものが、思っていた通りの面白さであるなら、悔やむことはないし、自分の進んできたものが見渡せれば、間違ってきた場所だ、とは、思わないものだ。たとえ、それが想像の中のことであっても。