心の小さな一波

into-the-sky2007-03-15

  冬の晴れ、冬の一日、冬の気温、花粉付き。一昨日から、どうも鼻がすっきりしないし、クシャミも頻繁に出る。余程、量が多いのだろうか、花粉症に近い症状が出ている。

 昨日は、早朝、職場に行き、その後、神保町に向かった。それから、職場に戻り、新宿のホテルに行った。22時頃に帰宅。この複雑な動きの仕事は、毎年やってくる。頭の中が、一年中で一番暖かくなる日である。


 僕は、物事の“終わり”というものを、あまり意識しない。何とどのような比較をしているかというと、世の中や周囲の沢山の人を見ている中で、「この人は随分と終わることを強調しているな」「終えることに目的を置いているな」と感じることがある。それとは、「自分は違うな」と思う、ということだ。
 かなり漠然とした抽象的な話になるけれど、そもそも、この世界には、終わりがない。せいぜい、人が死ぬ時に終わりをむかえることに似た動作にはなるけれど、その人がどこか遠くに行き、そして見えなくなり、永遠に帰ってこない、ということであり、頭や心の中では存在し続ける。もちろん、悲しくなり寂しくなるが、“終わり”や“無”ということとは、別である。また、宇宙にも我々が想像できるような終わりは存在しないし、地球は一秒間に30キロメートルの速さで太陽を周回しているから、終わって止まる、ということさえ、現実には不可能である。
 極めて現象的にとらえると、終わるということは、次の始まりを意味するものだ。また、二つは明確な境界を持たず、重なり合っている場合がある。むしろ、社会の中では、このパターンが圧倒的に多いだろう。一つの終わりが近づいてくると、次の始まりを意識するし、さらにその先の準備に取りかかる。“人をしきる”という立場になればなるほど、一つの始まりから次の始まりまでのスパンは短い。その合間に、何かが終わる場面に遭遇したり、何かを終えるという動作が入るだけであって、終わることの達成感に感慨することはない。ゆっくりと立ち止まるということが、難しいからだ。
 物作りに対しても、作ろうという目的があってやっているはずで、それに加えて、できるだけ目標のものに近づけようとする目的が、付随する。だから、その目的に向かって、準備したり環境を整えたりすることで、完成形が想像できれば、その時点で一つのことが終わっている、という言い方さえできるはずである。ありていに言えば、達成感とは、その時に味わえるものだと、僕は思う。 
 我々の普段の生活の中で、終えるということは、目標としていたものを達成させる、ということだ。目標は他人に掲げられるものも、自分で掲げるものもある。けれど、あくまで達成感というものは自分自身で感じるものであり、それは、“ほっとする”という心の小さな一波である。それは、自然のままでは、他人や周囲が見えるものではない。もっと静かな、もっと落ち着いた心の決着である。

 何か一つのものを終える時、終わったことを周囲にアピールし、セレモニー化する人がいる。もちろん、それは悪くないし個人の自由であり、否定しない。まったくもって、好みの問題だ。そのようなセレモニーの中では、僕は、とにかく、少し離れたところに身を置き、それを静かに見守りたい、と思っている。あまりに派手なセレモニーだと、引いてしまうが、もちろん、嫌な気持ちになることは、ない。
 ただ、僕は、他人に掲げられた目標を終えることは必然であり当然であるという想いが強いし、増して、自分自身の小さな波だから、周囲に向けた“何か”である必要性は感じない、ということ。