どこでも座りたがるのは

into-the-sky2007-03-12

 朝から快晴が続いている。氷点下まで冷え込み、寒い。これでも、いつものこの時期よりかは、暖かいはず。3月も中旬になると、日の出の時間も早く、冬に比べると日差しもやや強まっているので、家を出る頃には、凍えるような寒さはない。家の前の桜を見たが、つぼみは膨らんでいるものの、まだ、破裂するほどではない。開花まで一週間以上はかかりそうだ。



 昨日は、雨が降っていた午前中は音楽鑑賞と読書に浸った。雨が止むと同時に、家の窓を全開にして空気の入れ替え。風が強かったので、それまでの何とも言い難い“もやもや”は、一挙に外に出ていったようだ。人の頭の中の“もやもや”も、どこかを開放して出ていくと、面白い。まあ、これは、そうしたい、という願望ではなく、単なる興味本位によるものだが。一方では、窓を開放して家からそれが出ても、風上側の窓から、別の家の“もやもや”も入ってきてしまうのか、と考えるが。まあ、一瞬、だけれど。その後は、いつもの散歩。森の中は湿気が沢山残り、道はヌカるんでいた。

 子供の頃は、家の身近に、土泥道も砂利道も随分とあった。アスファルトやコンクリートで舗装した道も、路地に入ると砂利道に変わっていた所もあったし、点在していた畑からは、雨が降る度に土が流れ出ていた。だから、泥遊びをしなくても、靴は汚れていたわけである。繁華街の道端の側溝も、いまのように覆い隠されてはいない所もあったから、大雨が降ると溢れていたし、どこからか運ばれた土や泥もあった。ゴミ箱も方々に沢山あったし、タバコの吸殻や灰も、散在していた。
 「ジアベタリン」なんて言葉があるように、今の若者は、すぐにその辺りに座る。それに大して、「汚れても抵抗ない、無神経に無清潔になってきている」等と言われている。けれども、今の街中はどこもあまり汚れていない。今は、基本的に、どこも綺麗である。
 加えて、大規模な開発や整備によって、たとえば、駅前広場は広がったし、ビルとビルの間の空間も広がった。以前は、歩道から直ぐに改札へ上がる階段があったけれど、今は、二重構造のペデストリアンデッキがある。所狭しと隙間なく雑居ビルが並んでいたところは、大きな一つのビルに集約され、捻出された部分には、植栽もある綺麗で広いアプローチがある。綺麗になり、面積も広がったのだから、そこに座る人が増えても、特に不思議ではない。
 とかく、階段に座る人を見ると、連想するのが、ローマにある、有名な“スペイン階段”である。映画「ローマの休日」のシーンで、女優の“オードリィヘップバーン”と共に登場し、知名度もかなり高い。この映画が製作されたのは1953年だから、当時から既に“ジベタリアン”は、当たり前のように、沢山いたわけである。


 今の若い人の体力が比較して軟弱で、すぐに座りたがる、というのは解る。電車の中でも、数人で居れば床に直接座る。僕の前の席が空いても、そこに座らないでいると、どこからか、突進してきて座る人の中には、学生風の若い人の姿も少なくない。何しろ、今の若い人は忙しい。授業も出て、友達や恋人と遊んで、旅行も行き、家族と共に過ごすこともある。増して、昔は無かったおしゃれで高い“カフェ”で待ち合わせをする。その時間潰しで、ケータイでメールである。昔は無かったものだから、以前に比べれば、月に一万円以上は余計に出費している。その分は単純に、アルバイトの時間が増える。話を聞く度に、その忙しさには驚くほどだから、常に疲れていて、場所を選ばず積極的に座るのは、当然なのかもしれない。
 多少の年長者として言わせてもらえば、疲れて座って眠りほうけるより、立って、そして、歩いて、色々を見たり考え事をしたりするのも、悪くはない、と、思うけれど。