AMラジオ

into-the-sky2007-03-09

 夜ははっきりと月が見えた。慣れれば、本が読めるほど、ベッドが明るく照らされていた。透明度が高い空気。見えるものを惑わす強い光もないせいか、色々なものが、沢山よく見える。視力が上がったような錯覚に陥る、見え方である。僕は視力が悪いが、最近は眼鏡をかけていない。毎日のすべてが、ややぼんやりとした世界である。視野のすべてを意識的に見ているわけではないので、これぐらいの見え方でちょうど良い。まあ、基本的には、支障をきたさないぐらいは、見えているということだが。


 唐突だが、僕は、今まで、比較的ラジオをよく聴いていたことを思い起こした。特に、中学生から二十歳頃までは、かなり聴いていた。最初に“ラジオ”というものを認識したのは、家族旅行の車中だったと思う。当時の車は、フォルクスワーゲンビートルで、しかも旧式のもの。今のようにカーステレオという豪華な大げさなものではなく、小さいAMラジオだけが付いていた。“家族旅行”という子供心に胸を膨らませる楽しいイベントの中の、それまで、普段聴くことがほとんどなかった“旅行中のラジオ”は、言わばそれを象徴とするようなもので、揚々とする気持ちに拍車をかける演出材料だったわけである。
 当時は、新潟や長野の軽井沢に毎年のように旅行していた。今のような高速道路もなく、一般国道の17号線や18号線を行き、埼玉県の本庄や群馬県の安中を通って、長野に抜けていた。家族旅行に長時間ドライブだったから、子供心に、これほど愉快なことはなかった。つまり、僕のラジオに対する第一印象には、そのような気持ちが、あわせて摺り込まれている。当時の司会者がやっている番組は、今でもあるから、それを聴くと、その気持ちとともに、当時の車窓からの風景も、頭に思い浮かぶのである。


 主体的に、ラジオを聴きたいと思い始めたのは、中学生の頃に流れていた、“ラジオドラマ”だった。以前は、親がつけていたラジオを受動的に聴いていたに過ぎなかったが、それがきっかけになり、面白さを感じ、趣を手向けていった。トークや音楽・スポーツ中継の他に、ラジオにもドラマがあると知ったのも、やはり同じ時期だった。ドラマ=テレビという認識だったから、ともかく、意外な世界でありショックでもあった。どことなくしっとりとした静かな台詞まわしに、特徴的な効果音。瞬く間に、あの一種独特な雰囲気の虜になった。
 その番組は、3時間ほどの番組の一つのコーナーだったので、やがて、ドラマの前後のコーナーも聴くようになった。今ほど、番組中に音楽が何曲も沢山流れる、ということもなく、各コーナーに登場する人の話を、面白く感じていた。学校が休みになると、一つの局を朝から夕方までずっと聴いていた。ベテランの司会者達による軽快な口調、老若男女問わない、さまざまなコーナーのゲストの話に、興味深く聴き入っていた。大人がしゃべる、難しい話も、当時は背伸びをして懸命に聴いていた。親以外の大人の世界を、隙間から覗いていたのだろうか。

 
 夜のラジオは、高校生の時に卒業し、それからは、昼過ぎのワイド番組を、6年間以上、楽しんだ。ライブで聴けないときは、タイマで同録までしていた。高校を卒業して、時を止めていた一年間、大学から専門学校へと一挙に進み、それから社会に出るまでの数年間は、そのラジオ番組と共に、あった、と言っても良いだろう。その頃の時代、その頃の言動、その頃の志、それらのすべてが、そのラジオ番組とオーバーラップしながら、存在していた。けれども、それは、活力でもなく、清涼剤でもない、もちろん、心の拠り所などという大げさなものでもない。ただ、見て向かう自分に、いつも何かを聴かせてくれていた、もう一つの世界だったのである。
 大きな走馬灯のように過去を想う、その灯火のように、流れてはあてていたラジオ番組も、この3月で終わる。15年以上も続いた長寿番組だった。照らしていた“灯り”が消え、暗くなる。完全に暗くはならないし、仕方のないことだけれども、ここ数年、聴いていなかったことは、やや悔やまれる。