駅前の精神

into-the-sky2006-12-12

 朝から寒い。日中になっても、気温はほとんど上がっていない様子。雲が厚く昼頃からは雨だろうか。昨日の帰宅時、職場から駅まで歩いていると、猫と遭遇。「寒いので近寄ります」と言うので、待っていてあげると、「暖かいです。ありがとう」といいながら、足に擦り寄っていた。季節始めの寒さには、体がこたえる。
 先週から3週に渡って、毎週末に外のイレギュラの仕事が入っている。休み前に仕事が増えるのは、その後の休みとの落差にメリハリがあって良い。落差なのか登差(実際こんな言葉はない)なのかは、どちらとも言えないが。年間で最も長期の休みが近づいている。


 駅前では、稀に、帽子を被り大きな黒いサングラスし、大きなマスクをした年齢不詳性別不詳の方々が、汚い看板を掲げてビラを配っていますね。なぜ、そこまで顔を隠す必要があるのでしょうか。自分達のしていることに、余程後ろめたさを感じているのか。不思議ですね。そこまで隠さなくてもよろしい、と、個人的には思うのです。もちろん、思想の自由も表現の自由もあるわけですしね。おそらく、誰かにマークされるのを恐れてのこととは、思いますが。
 今の時代は、誰かに何かを頼んだりする際、身分を明らかにしないと、まったく受け入れられない。そこまではしなくとも、ほとんどを隠し、ロボットか人間かも区別がつかないような風体では、それだけで、拒否反応になります。自分達の論理を知って、あるいは、理解して欲しいのであれば、隠さない方がよい。よくある、居酒屋や美容室のビラ配りのように、ティッシュ付きで、笑顔で明るくしているほうが、一般の人も、もっと自然に受け取れる。時代も思想も趣も、時代によって変化するわけですから、何かを訴える側の人間も、柔軟に対処したほうが良いと思うのは、私だけではないはず。実際に、そのような人達の主張している内容は、今の時代においては、そんなレアではなく、極論でもないのです。正論だし、比較的一般的な意見だろうと、散見されますが。
 ちなみに、私は、右でも左でもない。アサッテぐらいの方向でしょうか。だとすると、私は、“全身着ぐるみ”で、一人ビラ配りになります。


 そう、同じ駅前で、繰り広げられるものとして、緑の羽・赤い羽根の共同募金もあります。あの羽は、本物の鶏の羽を緑や赤に染めているのです。まあ、そのために鳥を殺して・・・ということではないのですが、前近代的ですね。赤い羽根を募金の代わりに返しているのは、世界中で、日本と南アフリカだけだそうです。しかし、なぜでしょう。「私は募金しました」という、周囲に対するアナウンスメントのためか。または、羽を付けてもらうことで、一つの広告的効果を期待して配っているのか。おそらく、羽自体が物珍しいと思う子供が、羽欲しさのために募金する以外、羽をもらいたい、つけたいと思う人はいないでしょう。後者がほとんどなはず。
 税金だって、援助活動に使われているのです。諸外国も含めて、生きているというだけで、生まれたての赤ん坊でも、間接的ながら税金を払っている。募金という行為は、もっと定常的であり、もっと自然な動作であり、もっと、静かなものでしょう。メガホンを使って、大げさに募るものではない。増して、わざわざ、広告のような、あるいは見返りのようなものを配る必要などないだろうと、考えますが、いかがでしょうか。募金をしたからと言って、特に偉いというわけではありません。募金しようという気持ちになる人にとっては、ごく当たり前の行為でしょう。もちろん、見返りも期待していない。
 そこで、例えば、年間で一日、“募金の日”というものをつくり、この日の正午からの10分間を募金時間ということに定める。この10分間におけるGDP(国内総生産)分は、毎年、募金予算にする。2005年度の日本の年間GDPは、505兆円を超えていますから、約500兆と考えても、10分間だけで、95億円以上にのぼります。1年は525600分もあるのですから、その10分だけ、募金のために働く。なんてアイデアはいかがでしょうか。
 各人それぞれが、相手を思って自由意志で募金する、その募金の精神は大事ですが、けれども、それは募金する側の道理であって、募金される側にとっては、一義的な要素にはなりません。お金を貰う側は、金額の多少に関わらず、それが誰からであっても有り難いと思うのであれば、それこそ、高額なほど、助かるという事実だけが、残るわけです。精神ではない、実質的な恩恵ですね。
 しかし、日本の借金は、財部氏の“借金時計”によると、773兆円にも、のぼりますから、まず、日本国自体に募金をする必要がありそうですが(これは皮肉です)。