幸せの感じ方

into-the-sky2006-10-16

 昨日の朝は曇り。台風の一番外側の雲がかかっていたせいだろうか。しかしそれも次第に取れて、午後からは晴れ。今朝は12℃まで冷えた。真冬の少し暖かい日の日中の気温と同じ。都心部と違い、それでも日中は十分に暖かい。近くの森では、まだ、たまにセミが鳴いている。随分と出遅れたものだ。と、人間かそう感じているだけだが。


 自宅のある郊外の丘陵地は寒暖の差が大きい。気温は、それを保つ要素や上昇させる要素がないと下がっていく。つまり、都心部はその要素が相対的に多く存在するということ。住んでいる地域の話を誰かとすると、「郊外はよく冷えるでしょ」と言われることが多いが、「都心部は冷えないでしょ」と言う方が、ニュアンスとして近い。季節によっても違うだろうが。夏は比較的「都心部の夏は暑い」と言うことが多く、冬は比較的「郊外の方が冷える」と言うことが多い。これは、相対的により多く“困る”方を対象にしているからだろうか。夏は暑い方が困るし、冬は寒い方が困る。実際の仕組みや意義に関わらず、人の感じ方によってその結果の印象が異なるメカニズムだろうか。
 少し違うが、楽だと思うこと大変だと思うことも、考えてみれば両方、そのように“気になること”には変わりないはずなのだけれど、楽しいことを、「楽しそうで気になる」とは言わない。確かに辞書で“気になる”を調べても、“心配”とか“心を悩ますさま”などと書いてある。さらに、言葉も、仮に“嬉しい系”と“嫌系”と少々乱暴な分け方をすると、それに似たニュアンスを持つ言葉で、ほぼ一瞬で思いつくのは、明らかに嫌系の方が多い。辛い・苦しい・きつい・厳しい・惨い・酷い・憂鬱だ・心配だ・釈然としない・やるせない・理不尽だ・・・。しかし、それは、今までの経験にもよるかもしれない。一般的に苦労を多く経験してきた人は、それらの言葉をより多く思いつくだろうし、楽しい経験が多かった人は、その逆だろう。言っておくが、苦労が大事だとか、楽が駄目だと言っているのではない。そして、実際にどちらの言葉が多いのかは、国語学者でもない私は知らない。あくまでもイメージ上の話だ。
 ただ、自分の過去について、大変だったこと・苦しい思いをしたことは、積極的に他人に話そうとしない人が多いということは言えるだろう。すると、それらと意味する言葉の思いつく数によって、何となくその人の過去を推し量ることもできるのではないかと、そう思ったりしているが、いかがだろうか。

 さて、生涯の人生のうちで、楽しい・幸せと思うこと・辛い・不幸だと思うことは、どれぐらいの比率だろうか。私は、日本人の平均寿命の半分も生きていないので、仮に今までがすべて楽しいと思えたとしても、これから、辛いことの連続で生涯を終えるかもしれないので、予想の範囲は出ない。少なくとも今まではどうだったかというと、全体的な印象は、「どちらとも言えない」が、もっとも適した表現だろうと思っている。
確かに各ポイントで、印象に残っている出来事はそれぞれあった。しかし、今となっては、個々に一つ一つを思い出し反芻することは不可能だ。なぜなら、それは一つの限定された時間やタイミングでは説明できないことだからだ。
 辛い日々が続けば、その後の、それから開放された日々は幸せだと感じていた。けれど、やがて、それよりもさらに幸せな日々が訪れれば、過去のそれらは総じて幸せではなかったと思いが変わった。次に、それが定常的に持続すると、次第に幸せだとは積極的に感じなくなった。そして、さらに幸せだと感じられる生活が訪れれば、以前のそれは相対的に幸せではなかったと改めて思い直した。その繰り返しだったと思う。そして今、感じる辛さは、以前では恐らく幸せな部類に入っていたはずだと思えるほど、比較する互いの距離は遠ざかり、霞がかかっているようになった。
 つまり、その時、今はどうであるかを散見できたとしても、その後に生じる幸せの度合いによって、その所々の様や感情は左右されるということだ。自分がいずれに属するのかは、あくまでも比較相対的なものであり、その境界も明確なものではない。後から過去を振り返り、「そのときの自分はそうであったのだ」とする“今のその思い”こそが、それが楽しかったのか、幸せだったのかを定義する唯一の材料になるだろう。
 人は、これから不幸になろうなどとは望まない。過去の、何かのいつかの一時点よりも、今を、そしてこれからを、例えそれが少しであっても、幸せになろうと工夫したり努力したりし、生きている。そして、そうであるならば、これから必然的に迫り来る辛いことも、幸せになるための大きな流れの中にいるのだと思える。
 今までがどちらかは決め難い。けれど、そう思うことができれば、少なくとも、今の方が、幾分幸せだとは言えるに違いない。