男女の分担

into-the-sky2006-10-14

 曇り時々晴れ。窓を全開にしておくと、鳥のさえずりが耳立つ。それさえも無ければ、まるで深夜のよう。それぐらい静かで穏やかだ。あっ、ハエの飛んでいる音もしている。窓を開けておくと、確実に家に入ってくる。もう家というか部屋全体が、“ハエ取り紙”みたいだ。いや、虫かごにしておこう。しかし、ハエや蜂は、家に入ってくるとしばらくその辺をウロチョロしているが、やがて上へ上へと登っていく。自宅のリビングは大きな吹き抜けになっているので、遥か彼方を旋回し、たまに天井にホクロのように留まる。こうなったら、捕まえて追い出すこともできない。基本的には、蚊や大きな蜂以外は気にせず、虫の好きにしていただいているけれど、それでも、二日ぐらい経つと、お亡くなりになって床にお休みになられている。哀れだ。家の中に入ってこなければ、少なくとももうしばらくは生きていられたのかも知れないのにと思いながら、お別れをする。だから、入ってくると私の心の第一声は、「あ〜、また死ににきた〜」だ。たまにスズメも入ってくる。家に深入りして一人でパニックになってしまうスズメも、稀にいるが、さすが、虫よりは賢い。窓という窓すべてを開けて、私が気にせず静かにしていると、そのうち出て行く。「通りがかりの人だ」、と思う。


 今日も休みなので、朝から家の仕事をこなした。今日はトイレ掃除・洗面所掃除、そして洗濯だ(いつもの記録だ)。もう、こうして何年経つだろうか。自宅を建てて未婚なのだから仕方ない。けれど、この先運良く、結婚しても、今の掃除洗濯の家事仕事は、引き続いてほとんど全てを自分でやることになるだろうと予想している。一回交代とか分担などもしない。特に掃除は、気になる人がすればいい。汚いことに気にならない妻氏であるならば、そういう相手と結婚したのだと思うだけだ。これは諦めではない。期待もしないし、日常生活において、些末な問題だろう。夫氏は仕事が忙しくて掃除や家事などできないということは、理由としては成立しないだろう。そもそも、酒盃を交わしたり、寝たりする時間はあるわけだから。優先順位をかなり後位に持っていって、結局やらないというだけだ。


 表面的には違う考えを装っていても、内心は「奥さんは家で家事をするべきだ」という男性がいる。そんなことに拘る男性は、もはや完全なる時代錯誤ではないか。確かに以前はそれがある程度必要とされる時代もあったろう。でも、それを解消しようと人々は望み、社会・環境やシステムが便利に変わってきた。例えば、かつて大きく重たかったものは軽く小さく誰もが使いやすくなった。そして、例えは、スーパーマーケットは、昔は夜の7時に閉店していたが、今は24時間営業のコンビニエンスストアもある。さらに、例えは、魚も切り身で味つきで売られ、焼くだけか、レンジでチンだ。
 また、一方では、「女性の社会進出を・・・」と銘打って、それが男女の平等だと高らかにそれを訴える女性もいるが、それでは、家事を専業することは社会ではないのか。言うなれば、“会社進出”ではないのか、と言いたくなる(言っているけれど)。
 根本的に、外で仕事勤めをするから偉いということもないし、しないと人間として成長できない、社会人としての常識も吸収できないということでもない。マスコミは、オバタリアンと総称し、その人達がまるで社会から外れていると誇張して、かつ、十把一絡げに印象付けた。それは、個々や差異と言った条件を伴わない、短絡的な考えによるものだ。
 社会やそのメカニズムへの順応性やその意志は、個々の適応力や向上心といった人間性によるものだろうし、専業主婦の中にもそのような意味での常識人は当然沢山いるだろう。立場や周囲の環境など関係ないし、それらの境界条件で、人の優劣がつくわけでもない。つまり、そのような定義をすれば、男女平等=女性の社会進出といった根本的に次元の違う現象が同義上の目的とその手段のように表現されることもない。社会に出ない人は相対的に劣っているという誤解から生じた発想だからだ。
 そもそも、仕事は最小限に、自分の自由な時間を有意義に過ごすということは、男女関わらず人間が目指している理想に近いものなのであって、些少でも徐々にそのように社会や環境はその方向に進んできている。それを一見し、暇で自由だと決めつけそれを良くないとするのは、理想へ進むことを諦めている人の一方的な僻みだ。
 求人票に性別を記す欄が無くなったとか、看護婦が看護師に名称が変わったなどという、単に表面的に一律化しただけの些細な変化が大事なのではない。今さら、男も家事をやるべきだという当然なことに拘り、分担の量を変えることが重要なのでもない。性別に関係なく、誰もが自由に考え、理想や目的を掲げられる社会が求められているはずであり、そのためには、自分がパートナーに対してどう考え、互いにどう主体的に行動していくかである。
 男であること・女であることは、比べれば差異が存在するということであって、それぞれの意志や手段そして方法に先行して存在する条件や制約ではない。