焦っても変わらない

into-the-sky2006-10-08

 一昨日は雨で寒い一日。しかも強風付きで強い。これだけ長時間に渡って強く降ると、今年は平年値よりも雨が少なかった時期があったのだろうか。だいたい気象現象は、年間で、あるいは、夏・冬で、そのサイクル内の降水量の平均値をとるようなところがあるので、きっと、そういうことなのだろうと、勝手に解釈している。「今年は、この辺雨あまり降らせてないから、今回はこの辺りを重点的に」と天気の神様(いないだろうけれど)がそうさせているような、雰囲気。まあ、しかしながら、外で傘を差していて強い雨に叩きつけられると、なんか滝に打たれているような、侘しさという名のエッセンスが、鼻を掠めていくようで、自分で哀れな気分になるのは、私だけだろうか。
 一変して、昨日は一日晴れ。しかもほぼ快晴だった。台風二個と低気圧と秋雨前線を飲み込んだ強烈な低気圧が、汚れた空気もミックスして拭い去り、お陰で空が濃く高い。昨日の天気から大きな音を立てて変わったみたいだ。「がらり」と、いや、「ドカーン」とだ。


 人は、残念ながら、そう大きくは変わらない。常套句で、「生まれ変わったみたいだ」と誰かに対して比喩的にそう言うことがあっても、実際は、気象現象のそれと同じように、雨から晴れのように、まるで大きな音を立てるような劇的な変化はしない。
 音で言えば、「サー」や「ジー」だろうか。せいぜい、くもりが薄曇に、あるいは、霧雨が雨に変わるぐらいだろう。しかも一日ではなく、二ヶ月三ヶ月とゆっくりと時間をかけて徐々に変わるものだろうと推察される。断っておくが、晴れが良く雨が悪いというわけではない。状態の良し悪しでも内容の高低でもなくて、単に変化の度合の話しである。
 例えば、あえて抽象的に書くけれど、自分はこんな人間になりたい、今まで無かったこんな部分を包容できるようになりたいと思う。それから、その目的に向かって、色々と思考をめぐらせ、そのような新しい何かに関わり近い言動をとるようにする。とりわけ、その目的や変化に気が付いて欲しい人の前でそう振舞うのである。そして、その相手を伺う。「どう?少しは変わってない?」と心の中で聞く。このようなスタンスでいれば、相手もたぶん、変化に気が付いてくれているだろうと考えることができると思う。ここまではそう難しいことではない。往々にして解かって欲しい人間には、そのような変わった表面は伝わるものだからだ。しかし、そのうち、以前の自分が、月に掛かる細い雲のように出てくることに気が付く。根本的には変わっていないのだと溜め息を漏らし、自分は変われないのだろうかと首を傾げる。それが二・三回繰り返されると、諦めてしまう。変われなかったと。無理もない。信念が変えられると信じ、変わらない現実を知って諦めるからだ。
 人の思いや考え、そしてそれに基づく言動のベースと成り得るような、“信念”は、多少形を変えることがあっても、一生を通して大きく変わることはない。では、ここで、諦めるべきか。いや、そうではない。
 そもそも、他人を見て、「自分もこうなろう」とか、他に影響されて「こうした方がよいだろう」と思うことのほとんどは、そんな深層の部分ともいえる信念に直接結びつくものではなく、ごく表層の、他や周囲といった、他人や外に向けられる言動であり、自分の外から観察される一つのスタイルだからだ。自分が着る服の好みが、その時の年齢、それに伴う考え方、そして、時代や文化というものの影響を受け、徐々に変わって行くことと、ほぼ同じことだろう。当時の写真を見て、かつての昔の自分を振り返っては、「よく、こんな格好していたものだな」と恥かしいと悔やんだり、「私は変わったのだな」と思ったりする。


 問われるべき大切なことは、ある一定の時間や範囲の中で、自分がどの程度変われたかどうかではない。まず、大きく変わるものではないと考え、すぐに変えられることではないと自覚し思い、その変化の乏しさや緩慢さを認識することが大事だ。あらかじめ、そのようなスタンスでいれば、すぐに答えや結果を追い求めないでいられ、余裕が出てくる。焦ることもしなくて済むということだ。そして、変わるとはどのようなことなのか、なぜ変わらなければならないのかを自ら定義し、長い目で達成しようと思い続けることで、徐々に目的の方向へと進むことができる。
 真意に変わりたいと思う人間は、必ず変われるだろう。
 少なくとも、「変わったほうが良い」と思い始めたその瞬間から、既に、そして確実に変化への道筋に立っていることは、間違いないからだ。


 ・・・と、私は、自らに、そう、言い聞かせている。