奥様は魔女は楽し

into-the-sky2006-10-05

 朝から雨。秋分も越えて十日以上経つこともあって、朝がすっかり遅くなった。それもあって、まだ暗いからと思っていると7時近くになっていて、多少驚く。この少しの“驚き”によって、朝を迎える頭が冬モードに切り替わる。もう明るいからそろそろ起きようと考えなくなるということ。「もう、起きる時間は明るくないのだ」という具合に。
 ここ三日間は、省力モード。パソコンで言えば、“セーフモード”といった感じ。体調が悪いわけでもないし、ちゃんと仕事もし、いわゆる欝な状態でもない。何となく、陽気になれないというのが言葉としては近いだろうか。早く帰宅して、ゆっくりと読書や出力に勤しんでいるところ。


 そういえば、今夜半からNHK衛星でアメリカテレビドラマの“奥様は魔女”が始まる。予約しなければ。忘れないように書いておく。子供の頃から好きで再放送(当たり前だけれど)を何回か見ている。ドラマなのにオーディエンスと思われる人達の笑い声が入るのが、子供心に新鮮であり異質であり珍しいものだった。
 特に意識的に「見なければ」と思ったのは、確かテレビ東京で昼頃再放送していた時のことだと思う。今の、メディア(あえて抽象的に)に関係する仕事を始めていた頃でもあり、現代ならまだ解かるが、アメリカでの放送が始まった1964年当時は白黒放送であり、フィルムに記録してほぼ手作業で編集している時代だ。現在のようにVTRに収録しコンピュータによるディジタル編集をする技術はない。テレビカメラに付いているレンズも、今では当たり前のズーム機能を持たないし、今の日本のドラマのように5台も6台もカメラを使用していない。でも、作品を見ても内容も作法も古さは感じないし、もちろん、今ほど技術が発達していなかったのだろうと実感することも、ほとんどない。
 ちなみに1964年、日本ではNHKが“赤穂浪士”を大河ドラマで放送している。しかし、当時大変高価なテープは上書きされて、作品はほとんど現存していない。内容も作法も周辺の技術も日本とアメリカでは、かなり違った。当時の日本のテレビドラマは、ほとんど今のテレビにも登場しないのでなかなかお目にかかれないが、大まかな作品のテイストや技法は、アメリカのそれと、15年ぐらいは差があるのではないかと思えるほどだ。強調しておくが、私はまだこの世にいない頃の話。あと10年経ってようやく存在するかしないかという微妙なところ、だ(笑)。


 今のテレビドラマというと、“恋愛か死か”もしくは“恋愛と死”みたいな内容が多い。これに、ケータイ(携帯電話)とお笑いタレントを加えれば「はい。出来上がり」だ。原作が漫画であれば、全体的に激しいタッチで、小説ならば、しっとりとしたタッチ。この程度の違いしかないように散見される。どんな内容であっても、見ていて面白いと思うことができれば見れば良いのだし、もっぱら民間放送は無料で視聴できるのだから、文句もなにもない。テレビは、所詮、そういうものだからだ。
 その点、奥様の魔女は一味も二味も違う。恋愛も死もない。もちろんケータイも。ややデフォルメされた出演者各々のキャラクターが、見ていてとても面白いし、ストーリーも楽しいし、とにかく笑える。中空を浮遊するモノにたまにテグスのようなものも見え隠れするけれど、そんな些細なことは、どーでも良いのだ。見て見ぬ振りをしてしまいたくなるほど、気にならないし、面白さに影響していない。出演者もスタッフも皆楽しみながら作っているのだなと素直に想像できる。それらが相乗して面白いと感じられるのだろうと思う。
 私は、売れないお笑いタレントが、半ば必死に身を挺するのを見ていても笑えないし、二時間の映画と同じタイトルのテレビドラマを11回見せられても、素直に面白いと感じられない。こんな番組が多い中、ただ、単純に見て面白いと感じ、見た後楽しい気分になれる、そんな作品だと、私は思う。
テレビは良くも悪くも、あるいは、人によって程度は異なっても、総じてその影響力は大きい。ならば、素直に単純に思いっきり笑えるような番組が増えると、現実を他所にマスコミ自身が騒いでいる、現在の、この、“世知辛い世の中”は、少しは変わるのではないのかと思うのだけれど。