テレビ電話で見たいか

into-the-sky2006-08-19

 今日は朝から出勤。昨日に続いて今日も夏の暑さ。でも、雨天多湿の包み込まれるような逃げようのない暑さに比べると、二日連続で、体を通り過ぎていく印象。そんなに不快には感じない。

 昨日一昨日と、休暇をとっていたが、昼過ぎに職場に少しだけ顔を出した。次の大きな仕事が控えていてその準備。クライアントからの業務メールは自宅でもリプライが可能だけれど、ある部下氏(人の名前ではない)などに指示を出さなければならないので、それだけで出勤することになる。ここまで情報を得るコミュニケーションの手段が発達して利便性が増してくると、それを利用できないジャンルの動作とのギャップが広がりつつあるなと感じる。最終的に結局は本人と会うのが一番早く、またそれが必要とされる、この状況は変わらない。
 今から何年前だろうか、子供の頃、テレビ電話が開発可能になった。当時のマスコミはそれを持てはやし、電話もテレビ・会議もテレビでできるそんな時代がそこまで来ている、そんな騒がれ方だったろうか。「近い将来、こうなります」と言わんばかりだったと記憶している。それを見て当時の私も同じように思ってそれを疑わなかった。
 さて、実際はどうだろうと考えてみると、技術的にはもう何年も前から完成に至っている。近年の発達は、主に伝送速度の向上と機器の小型化に向けられているということ。昨今では、一般ユーザー向けの携帯電話端末でも可能になっている。しかし、世の中に登場した時の予想よりかは、遥かに普及が進んでいないと散見される。
 現在、支店が方々に存在している大企業の一部や、IT関連一部の業種で利用されてはいるが、それは、そのシステムが設備されていることにより、実施が可能になった会議を行っているだけの話であり、従来の会議のすべてがそれに切り替わっているわけではないようだ。ハードウエアの完成度ほど、実際の利用率は決して高くないのが現状だろう。つまりある程度の補完は出来ても、それ以上の存在にはなり得ないことを実証している。そもそも、そのようなツールを使用しなければ業務が円滑に進まないような企業は、いかがなものだろうか。業務報告のみをメールなどで簡便に済ますことができる会社の方が、健全に思えるが。
 一方、一般ユーザーにおいては、街中であるいは身近な周囲を見渡しても、使用している場面はほとんど見かけない。私の携帯電話にも機能として搭載されているが、利用したのは一回だけ。イヤホンマイクなどを使用しない限り、自分の顔を撮影しながら通話をすることが難しいというハードウエア的な問題もありそうだけれど、それが解決されても状況はさほど変わらないだろう。
 元は家に一つの固定電話のみであったコミュニケーションは、携帯電話が普及しやがてメールへと発展する。手書きの手紙はインターネットでのPCメールへと変わりレスポンスが格段に向上した。こうしてコミュニケーションツールは幾何級数的に増えた。しかし、これ以上の他人との接点を欲求として持っていないということなのではないか。
 また、テレビ電話をする相手になり得る親しい友人・知人同士とであっても、常にその相手と接することを望んではいない。これは、自らのライフスタイルの中で、対人的にある一定の距離を置きたいという極自然な心理によるものだろう。言葉だけの比較的表面的な会話は俊敏に行き来させても、表情や姿までは常に他人に見られたくない。その表面的な関係や手段を越えて、それ以上の内面的は部分や周囲・背景を把握されるのを良しとしないのだ。携帯電話のメールで、実際の気分や本意にあまり関係なく、抽象化した“絵文字”を多用することも、それを象徴していて面白い。
 実際のユーザーの利便性よりも、テレビ電話によるいわゆる“パケット代”として通信料で儲けようとして、そのようなサービスを提供しているであろう各電話会社の思惑が見え隠れする中で、増して、今の通信料では若年層には受け入れられないだろう。
 他との距離を縮められる環境と、実際にそれを使うかどうかの意志は乖離している。
 その時の気持ちや細かな心理状態よってその違いを覆い隠すことの難しい、“映像”である視覚情報は、それを見ることを欲しても、見せたいとは定常的には思わない。見たいと思うのも見せたくないと思うのも、同じ一人の人間の考えられることだから、お互いに躊躇して使われないわけである。