休むために休まず

into-the-sky2006-06-07

 休みの日のすごし方は、休むことをする。・・・と言いたいところだが、そうはいかない。
 休むとは私にとって何だろう、何をしないのが休むことになるのだろうか。そう考えると、休みの日に休んではいないことに気づく。
 大抵、休むとは、頭や体を休める、これらを言いまとめたものだろう。一日の大半をベッドの中や上で過ごせば休むことになるだろうし、ただボーっとソファに包み込まれて一日を過ごせば、それも休むことになるだろう。
 私はどうかと言うと、休みの日をベッドで過ごすのは、もったいなくて出来ない。だから7時前には起きてゆっくりと朝食をする。その後二度寝することはあっても、遅くとも9時前にはベッドから起きる。そんなに忙しい日々の繰り返しにはなっていないが、休みの日であるからこそしたいことが沢山あり、しなければならないことも沢山ある。ゆっくりと寝ていられないのだ。
 ソファでボーっともほとんどしない。(ソファに座らないということではない) ボーっとすることが出来ないからだ。いつも、常に、絶えず、考え事をしてしまう・・・これが原因だ。何かしら常に何か考えている。困ったものだ。もっと早く考え終わればそんなこともないのだろうが。容量が悪いのだろうか。
 “考える”がベースにある。考えるさきに行動がある。浅はかな趣味も沢山ある。私にとって、趣味もまた、“考える”の延長線上に位置するものだ。“好きな音楽に耳を傾けながら心を休ませる”これは休日の過ごし方のまるで常套句とも言えよう。しかし、私の場合、音楽を聴くということは音楽を聴くという趣味に向かった動作であり、聴く事をするのであり、結果的に頭や心が休まることにはならない。明確に“したい”とか“しなければならない”と思うことであり、休むことに直接繋がらない。音楽の仕事をしているわけではなく、あくまでの趣味の一環であることには変わりないのだけれど、休むための手助けにはならないと言う事だ。
 こうなると、私は、休むことに価値を置いているのではなくて、休みの日を過ごすことが大事だと、そう考えているのだと思える。連休が三日間続いても、それぞれの日にやらなければならないことは沢山あり、その順番が変わったり、一日でこなすそれぞれの量が多少変わったりするぐらいである。これが一ヶ月続いたらどうなるか。やはり変わらないだろう。それでは半年では?・・・解らない。

 休日でないと、一日24時間だと足りないとは大して思わないが、むしろ、休みの日だと、足らないと強く思ってしまう。奇妙なものか。仕事のある日は仕事をすることを目的としていて、それに一日の大部分が費やされる。それ以外に多くの何かを当てはめようという気持ちにならないし、仕事にあまり時間を割くことをしない。だからだろうか。まあ、こんな考え方だと、一日に割り当てられた時間が増えようとも、あればある分だけ使ってしまうのは必至だろうけれど。

 さて、本題に戻ろう・・・と思ったが、もうすでに長文に。またの機会にしよう。(文章能力がないな)