余裕・主義・心

into-the-sky2006-06-05

つづき

 誤解混同してしまう人は、明確な主義主張がない。ポリシーという大儀のテーマがない。目的が明確でなく手段との境界も明確ではない。だからこそ混同する。テーマを持たない人は相手に信念が伝わらない。解りやすく言うと、何を考えているのが伝わらない。これだと自分という存在自体を受け入れてもらえない。

一企業に例えると、上司から「これからは訪問先を細かく報告しなさい」「これからは自宅から直接訪問先に行きなさい」などと言われる。これだけを言われた部下は、「なんだか急に細かくうるさくなったな」とか「書類を前日に持って帰宅しなきゃいけないじゃないか」とかそのように思うだろう。しかも懐疑的にだ。理由も解らずこれまでよりは面倒になったとだけ思うのである。一つ一つは大した問題でないにせよ、これでは受け入れない。
 しかし、まず会社から、“経費削減”と言う大儀を打ち立てられると、それらの事柄が急に解りやすく見えてくる。それだけではない。その社のテーマが大きく掲げられると、「細かく報告しなさい」や「直接行きなさい」と細かく指示されなくても、自ずとその様な行動をとるのが適していると想像し考えられる。すると、それらを言われる必要もないし、言わなくても解り、そうするのである。つまり、その目的を受け入れられるし、他に強制されるまでもなく、そのように動くことができる。
 主義としての目的と言う大儀が無いと受け入れらない。受け入れられないと、他に個々のそれぞれを強要することになる。
 これでは、その都度細かく自分を主張しないと他にそれを期待できない。そしてその期待には他はほとんど答えてくれない。そんな様で自信にならないから、余裕ができない。寛大でいれないから他に優しさなどを与えられない。他に迫り依存するばかりで強引と言う名の迷惑や犠牲を強いるだけである。


 欧米人を見るとよく解る。徹底的な個人主義にも関わらず、同時に他に譲る文化や民族である。強い信念に基づき、言いたいことははっきり発言する。でも他に対する配慮は壮大とも言えるものだ。
 例をあげると、
 欧米人はお年寄りや体の不自由な人を目にすると、必ずと言って良いほど席を譲る。譲らない人を見ると、露骨に睨むし、はっきり譲ってあげなさいと言う。このような光景を見たことある人も多いだろう。エレベーターの乗降も同じことが繰り広げられるし、レディファーストという言葉もあるぐらいだ。
 譲るべきだとの主義主張はした上で、労わる配慮も忘れない。しかし、日本人は、自分も譲らない代わりに、他にそれを強要しない。周囲を見渡し、ある一定の固まりが、あるいはその全体がそういう傾向にないと、するべきとは解っていてもそれは実行しない。何となく譲らないことが自然だと思い、周囲を見渡しては、きっとみんな疲れているんだろうとか急いでいるんだろう等と都合よく解釈してそれで終わり。結果的に無配慮だけが残る構図である。

 今の日本は、“個人主義”というタイトルだけが先に輸入されたのだ。今までに無かった新しい言葉に反応し感銘を受け、まるで新風吹き込む時代の流行のように受け止めている。周囲の顔色ばかりを見覗いていた民族は、鉄砲伝来や明治維新並みなショックを受け期待をしている。「個人主義・・なんて素晴らしい」と。

 本質の主義を持たずそれを他に主張することをしない。それでいて、結果的な言動を個性と言い散在している個々の手段を主義だとする。これは他人によって侵されるものではないとし、その手段を主張しようとする。手段は、微細な状況や心理状態によって変わる。その時々で変わることで振り回され、到底受け入れられない他人は、それに困惑し懐疑的になる。本人は「私はこれでいいんだ」「これが私のスタンスだ」と勘違いし、本質と言葉を誤解し誤用する。懐疑的な相手に、何かをしたり、あえてしなかったりし、その主張を態度で示す。
 これが自分勝手のメカニズムだ。程度や表面的な違いは各々にあっても、総じてそういうことだろう。

 受け入れられる主義を持ち、それを貫き通す。信念に基づく言動をして、生じる心の余裕を持ち続ける。自分本位でも寛容でいられ、だからこそ、他に配慮する手段を持つ。
 そんな度量の持ち主が、真の個人主義者ではないのか。

 私はそう人間でありたい。
 理想論に近いかも知れないが、少なくとも、勘違いはしたくない。
 そう思うのである。