1月10日 表現ではなく道徳

into-the-sky2009-01-11

 6時に起床。外の気温は、0.6℃。夜の間に外に残っていた水分の大半は、白い粉に変わっている。家の中も寒かった。この時期、家を一晩留守にすると、次の朝は大抵冷える。旅行から帰宅して暖房をつけると、部屋の空気の温度は上がるけれど、壁や床・天井、置いてある物の放射温度は、一晩暖房をいれないと下がったままだからだ。特に今回のように、日中も天気が悪くて日照がないと、さらに冷え込んでいる、というわけ。
 昼前に一度曇って、風が強くなった。それまでは、家の前のアスファルトは濡れていたけれど、30分くらいで急速に乾いた。いわゆる季節風流入してきたのだろう。日中も気温は9℃どまり。
 朝食後の8時過ぎからは映画を1本観た。シャワーを浴びて、その後は、ソファに深く座ったまま、読書。昼食は、ほぼ例外なく、アイスクリーム。冷凍庫には、ハーゲンダッツが6個、それ以外の棒アイスが15本くらいに、アイスモナカが2つ。誠に、大人買い的な子供のような幸せの気持ち、である。昼食後は、新潟に居た分の日記を書いた。昨夜から、書いて寝かし、そして次のを書いて、前のを校正して投稿して・・の繰り返し。400字原稿用紙8枚と半分くらいか。しかし、不思議なもので、小学生の頃は夏休みの40日間でさえも、たった原稿用紙3枚書くのがもの凄く疎ましかったのだが。
 起承転結とか序論・本論・結論というキーワードは小学校3年生の頃に習ったと思う。しかし、それは文章の書き方の学習ではなく、「文章とはこういうふうに書かれています」という、文章の構造を客観的に捉えるための、少々のテクニックの羅列に過ぎなかった。教科書に載っている有名な作品の抜粋を読ませられても、読書への興味は生まれなかった。読む興味もないから書く興味もなかった。課題図書に対する感想文も、模範となるような作品を紹介されても、「あ、先生や大人が好むようなキーワードを入れれば良いのだな」と思うくらいだった。きっと、表現ではなく、道徳だったのだろう。国語という時間に何を修学してきたのか、記憶にない。僕の怠学と勉強嫌いのせいでもあるけれども。
 
 夕方までは音楽を聴いたり雑用をこなしたり、その後は駅まで少々の買い物がてらの散歩。家の近くの住宅街まで戻ってきたら、照明用の発動発電機車が停まっていた。もしや、と思って電源ケーブルづたいに歩いて行ったら、ドラマのロケ隊の真ん中に入ってしまった。スタッフの中には知人が何名か。気がつかれないように、足早に通り過ぎた。最近新築された家を使っていたみたい。ケータリングの業者も車で来ていたから、比較的規模が大きなロケだったのだろう。
 宅地開発が終了して街開きした初めの数年は、年間で数えきれないほどのロケ隊が街を訪れていたが、ここ2年くらいは落ち着いていた。最近、また増えだしている。通るのに邪魔だな、なんて思いながら眉間にシワをよせて顔をしかめていると、知り合いが居たりするから、注意が必要である。両方の気持ちが、少しずつ解る、ということか。


Piano Sonata No. 8 in C Minor 'Pathétique', Op. 13: II. Adagio cantabile by Walter Gieseking