12月21日までの、例証


12月18日
 この時期らしい天候で、特に気にならない木曜日。日中は暖かくて過ごしやすい。
 夕方まではいつもの職場で、定常的な仕事です。その後は職場を出て、グループ内の、別の職場に移動。前職の会社の方から、年末の挨拶に伺いたいという話をいただいていて、それに対応するため。今は、その会社のある業務に僕が窓口となって関わっていることがあって、それについて1時間くらい話をしました。ここ数ヶ月に渡り、何回か会って話をしているのですが、どうも、前にいた会社の上司から感謝されるということに、なかなか慣れない。
 どちらかというと、他人から褒められるということに、あまり喜びを感じないタチ。実は職場からプラス査定を受けているのですが、それも同様。褒められるために仕事をしているわけではないからです。ただ、客観的な評価であることに間違いはないので、少なくとも、仕事の仕方は間違ってはいないのだな、と認識することはできます。そのような意味では、自分にとってプラスにはなりますが。まあしかし、喜びを実感できるほど、頑張って仕事をしていない、ということかも知れないしなあ。「頑張る」の定義にもよりますけれど。いずれにしても、キョウシュクシゴクであります。
 その後は、近くの居酒屋で、3人で懇親会。ちなみに、もう1人は、昨日も同席した上司。ここでもいろいろと楽しく話をしました。昨日の会合においても同じことが言えるのですが、違う職場の違う立場の人との話というのは、参考になる情報というか考えを伺えるので、非常に有意義。その言葉に沢山の客体的な観察事項が含まれているからです。もちろん、自分で推察して客観視することも必要なのですけれど、自分の頭で考えることとは、所詮、客観という名の主観でしかない場合も多い。つまり、限界があるわけです。だから、他人からのインプットにもの凄い価値があるのですね。


12月19日
 晴れていて比較的暖かい朝。しかし、夜には寒くなる、という予想。落ちる予定の葉は、すでにそのほとんどが落ちていて、窓から見える空の面積が広がっている。
 さて、金曜日の週末。職場は既に、仕事納めモードに入っていて、何となく雰囲気が違います。すべてが惰性で動いているだけ、なんて書いたら、フキンシンでしょうか。
 夜に入って、職場の忘年会。三夜連続の深酒的環境。しかし、昨日一昨日とは違って、単純なセレモニー的な会合なので、あまり気がすすみません。出席することだけに、多少の意味があると感じるくらい。けれど、やること自体は否定しませんし、無駄だとも思いません。人によって、場合によっては、有意義なものにはなるでしょう。ただ、やるのであれば、可能な限り、いろいろな人とゆっくり話をする環境にした方が良いとは感じますね。日頃、あまりできないことをすることに、意味があると考えられます。
 2時間と少しで、2次会へ。およそ半数くらいの参加者だったでしょうか。もちろん、僕も2次会の店へ向かったわけですけれど、運悪く、カラオケの装置がある個室になってしまい、乾杯の後、すぐに大嫌いなカラオケ会に。
 昔も今も声が入っている音楽をあまり聴かないので、歌自体を数多く知りませんが、知っている歌は普通に歌えるし、ピアノを弾くということもあって比較的音感はあるほうだと自覚していますよ。けれど、他人にそれを聴かせることに何ら意味を感じないし、歌ったからといって良い気持ちにもなれないし、ストレスが発散されるということもない。他人の歌を聴いても同じ。楽しそうに歌っている姿を観察しても、ちっとも盛り上がらないし、煩くて話ができないので居ても仕方ないと思うし、劣悪な環境下で、どんどん機嫌が悪くなります。
 ところで、カラオケ好きな人だったり他人に強引に勧めたりする人って、大抵もの凄く下手ですよね。お経をあげている犬の遠吠えみたい(笑)。あ、あと、他人に勧めないで淡々と何曲も歌う人って、自分がウマいと思っている人が多い、そんなふうに観察されます。前者は、自分の下手を誤摩化すため、後者は聞いてもらいから静かだし勧めない、というわけ。まあ非常に独断と偏見に満ちた観察事項ですけれど(苦笑)。
 しかし、歌わぬ人に勧めるのは、いかがなものか、と思いますね。お酒を飲まない人に無理矢理勧めることに、ニュアンス的には近いでしょうか。歌いたい人、歌うことに意味を感じる人は歌えば良いし、飲みたい人、飲むことに意味を感じる人は飲めば良いのです。もう本当に・・、2次会がカラオケだと決まっていたら、絶対に参加しなかったのですけれど・・・。我慢できずに、会合の場では珍しく途中退席。


12月20日
 テレビの天気予報のコメントよりかは、冷え込んだ朝。都心部での温感で解説されるので、仕方がない。
 出勤の土曜日です。来週火曜日に外の仕事が入っていて、その準備。仕事をしていることには変わりないのに、他にスタッフがいないというだけで、何となく意気揚々となれるのは、なぜなのでしょうか。まあ、何となくそれなりに分析はしていて、答えは淡々と自覚していますが、書かないでおきましょう(笑)。批判的な意見ではないですけれど。若い人達もすっかり作業に慣れたせいか、規模のわりには予想よりも1時間ほど早く終了。偉いですね。たいしたものだと思います。まったく、教えた人の顔が見てみたいものです(ウソ)。
 ある1人が、物事に対して積極的に取り組むとする。それを観察している周囲が感化され、自分もそれに近づくように努力するようになる。すると、先頭のある1人がその周囲の刺激を受けて、一層貪欲になる。それに対して周囲がさらに意欲的になって・・・、というふうに物事に対する姿勢が活発化していくのです。特に珍しいことではないですね。これに対し、際立って秀でた1人がいない集合では、それぞれが身を置いている環境自体が平板化する。そのような刺激がない状態がデフォルトになると、姿勢という運動的な概念ではなく、固まりという位置的な概念になる。つまり、全体として停まっている、あるいは滞っているように見えるわけです。
 さて、前置きが長くなりましたけれど、これらに大別した、互いの境界条件は何でしょう。善し悪しですか、それとも能力の違い? やる気の量ですか? ・・・と投げかけておいて、お茶でもすすりましょう。けれどもしかし、大事なのは、それを傍らで見る人の、その人自身の観察能力だったりするのですが。


12月21日
 こうして見てみると、異なった2つ以上の数字の羅列による、シンメトリックな日付って、年間で今日だけなのですよね。だから何的な、他にありそうでない話。天気予報では「暖かくなる」ということでしたが、自宅の周囲は昼前の11時まで、北よりの微風で、気温は8℃台。その後、南よりの風が吹き始めて12時には11.5℃、風が強くなり始めた13時に15.9℃、さらに強風になった14時には19.5℃に。2時間と少しで10℃以上も気温が上がったのです。コートが必要な寒さから、体を動かしていればシャツ1枚でも過ごせるくらい温度になったわけ。2年に1度くらいのレアケースでしょうか。
 休みの日曜日。両親と姉の家族は、6人でディズニーシー(ディズニーランドだったかな)へ。まだ薄暗い早朝に家を出たました。随分と前に誘われていたのですが、僕は行かず。性別と年齢を考えれば、どちらかというと好だと思う集合に属しているものと思いますが、多客の時期に行きたいとは思えず。昼間は映画を観たり掃除をしたり、考えごとをしたり観葉植物の手入れをしたりという、いつもの休日を家の中で過ごしました。

 これくらい急速に景気が悪くなったと方々で聞かれるようになると、ちっとも景気が良くないと言われていた今までの景気の良さを実感することになる。つまり、高度成長期とは違って、景気の良さの実感とは、比較相対的なものが中心になっていて、顕著な現象は起こりえないのです。一部の業種に盛り上がりを感じることができるくらいで、大勢が同様の景気の良さを実感するこができる時代ではないのです。もう、そういう構造に、そういう環境になっているからであって、今後もそれは変わらないでしょう。好景気なんていう言葉は、死語になりつつあるのです。