9月3日までの、詳察

into-the-sky2008-10-20



9月1日
 いつものように6時前に起床。朝は、いつもコーヒーを淹れて飲んでいるが、ひとつのセレモニーのようなことになっているだけで、僕の場合、覚醒効果はほとんどない。ちなみに、ここに書かれていることの半分程度は、朝のこの時間に、Macintoshにインプットしている。まだ、頭の中は、時速30キロくらいだから、あまり積極的な出力にはならない。夜に書いていたら、書く量は3割くらい増えるだろうから、むしろ、丁度良いか。投稿した内容は、その日の夜は翌日にもう一度見ている。誤字や脱字の一部は、そこで訂正することになるが、数時間あるいは数日で、書いた時点との考え方が変わっても、内容は、一切の修正をしない。後で、ヘンなことを書いたものだな、と思うこともあるけれど、そのまま、である。
 定常的な出勤をして、若い人達に話をする、という仕事を昼過ぎくらい。その後は、他のスタッフが主催するイベントの打合せに参加。夕方までは、雑務。
 夜は、夏に開催された、大きなイベントの懇親パーティ。渋谷の道玄坂にあるある有名なクラブ?ライブハウス?で。仕事で、スタッフとして、何回も来た場所も、今日はお客。客として来たのは、今日が始めて。
 その大きなイベントに関わった、各セクションの代表者数名ずつが参加。300人くらいは、いたと思う。われわれ4人は、ステージ近くの目立つ位置のテーブルで、他のスタッフと挨拶をしたり、歓談をしたり。今年は、エアギターで有名な、あるお笑いの2人組も来ていた。3時間くらいで終わり。最後に、来年の、その大きなイベントに関して、その場にいた全スタッフのスケジュールに関わる、非常に大きな発表があった。来年は10周年記念ということもあって、なるほど、そうなるのか、と納得する内容。まだ、ここには書けないことだが、今月末くらいになれば、噂にのぼってくることになるだろう。
 1次会のあと、関係の深い他社のスタッフを含めた6名ほどで、近くの居酒屋へ。1時間ほどで、主催者本体からの2次会への呼び出しがあり、早々にきりあげ、ある高級なバーラウンジ(というのか)に移動。最上階と屋上にその店があった。招待でもされないと、個人的には来ないだろうな、と、しみじみ。その後も、また店を替え3次会。その後も、うどん屋に入って、帰宅は5時前。


9月2日
 昼出勤ということもあって、珍しく、9時過ぎに起きた。観葉植物に水をやったり、掃除をしたりと、家の中での雑務をこなした。家を出た12時過ぎの外の気温は、29℃を超え、晴れていて気持ちが良い天候。近くの家に停まっている車のアンテナの先には、赤トンボが止まっている。駅の近くにある芝生のゲレンデを歩いていると、胸の辺りにバッタが止まった。飛んで逃げていかないように、そっと歩く。30メートルくらいは一緒だっただろうか。硬く鋭い日差しの下で、夏と秋が同居している。
 駅に向かって最後の角を曲がると、半分に輪切りにされた、廃車体が、トラックに乗せられ進んできた。新車は、もちろん、完成された形で、人がほとんどいない夜中に、ゆっくりと丁寧に搬入されているようだけれど、もう捨てるだけの十分に古びれた車体は、随分とぞんざいに、無惨な姿を表現される。悲喜こもごも、という死語になりつつある言葉が、一番相応だろう。
 もともとは全休にしていたのを返上して、午後から出勤することにしたが、まあ、出勤すれば、それなりに仕事が入ってくる。いろいろとこなし、夜の早めの時間で、退勤。最近は、夜すぐに眠くなってしまう。夜の10時過ぎに就寝。


9月3日
 5時過ぎに起床。夜が明ける時間は明らかに遅くなり、それもあってか、いつもよりも、一段と早く起きたように錯覚する。外は、解りやすいくらいの、これから暑くなる日の、朝の曇り。けれど、熱帯夜ではなく、気温は23℃と少し。秋の虫の鳴き声が、消極的にうっすらと聞こえる。朝マック的に、早い出勤。
 たまに地上階に出るものの、基本的には地下の人だった。例によって、積極的に動くことは少なく、観察し、時に先回りし、あるいは、後処理をする、そんな仕事が断続的に。けれど、もちろん退屈することなく、むしろ、面白い。夕方過ぎに、ほぼ予定通り、順調に終了した。このプロジェクトは、明日の追撮をもって、終了。この後は、編集作業に。
 職場のロビーに並んでいるテレビで、初めて首相が辞職(辞意の表明)をしたことを知った。ネットのポータルサイトで、何となく「首相・・・」のキーワードを見かけたような気もしていたけれど、日本の首相と結びつかなかったのだ。
 きっとマスコミでは、「二世首相、相次ぐ・・・」あるいは、「混迷の政府、不安が広がる異常な事態」なんて言われているのだろうか。まあ、今の時代、1人の首相が長期に渡って政権を維持する状況よりかは、世相を繁栄した、幾分、健全な姿だと思う。そもそも、リーダーが変わったら政策も大きく変わる、とか、頻繁に変わると、不安定で不信感を増す、なんて危惧は、単なる妄想に過ぎないだろう。これは、誰がやっても同じだ、という諦めではない。1人に大きく左右される環境にないし、誰がどの程度、その職を勤めようとも、背景も表面も、ちっとも普遍的でない、ということ。
 店の看板にたとえるならば、大きさが変わったわけでもデザインが変わったわけでもなく、文字のフォントが変更された程度だ、と散見されるわけである。