明るく健全な日本のラップ

into-the-sky2008-03-11

 昨日は、久しぶりに真剣な雨。しっとりと湿った空気が体を包んでいる。この雨水の土への浸透が、アリを活発に動かすだろう。
 今日の夜のタクシーからは、上向きの三日月が見えていた。透明度の低い空気を抜けてくるその光は、中空に浮遊している、白鳥の羽のようだ。

 職場のある所では、一日中、あるミュージックチャンネルのテレビが流れている。そこで聞こえる音楽のほとんどに興味はないし、ほぼ、知らない。たまに流れてくる洋楽以外は、聞こえてはいるけれど、聴いてはいない。まったく、好みの問題である。けれど、周囲にいる若い人に「これ、有名な人達?」と聞くと、意外にも知らなかったりするから、たいして売れてはいないみたいだ。メジャな曲の合間に、売れていないアーティストの曲を混ぜるように流して、知名度を高めようとしているのだな、と想像。言うまでもないが、至極、必然的である。

 日本人のヘタなラップを見聞きすると、もの凄く無理をしているな、と思うことが多い。下手な学芸会の演し物を見ているように感じる。何を意味している動作なのかは解らない、手を前に出している姿を見ると、腕がけいれんした幽霊みたい。リズムの間を刻み踏めていない踊りも、見ていて微笑ましい。すべてがそうだとも言わないし、そもそも解らないけれど。
 耳に入ってくる日本のラップの歌詞は、道徳の教科書か、小学校の校歌のようだ。PTAが作った子供向けの標語みたいにも聞こえる。某放送局の、みんなのうたで流しても良いだろう。演歌の歌詞のほうが、ドロドロしていて陰湿な内容に感じるくらいだ。本場の西欧のラップの歌詞は、しっかりとダークだし、世の中や体制への風刺や皮肉が歌詞に書かれているものが多いようだから、かなり違う。
 日本の音楽文化やその環境は範囲が狭いから、メジャという集合もかなり小さなものだし狭い。分母が小さい中でなんとか売ろうとするから、あまり批判的な歌詞にできないのだろう。たとえば、紅白に出演させるには、冒険的な歌詞はうてないし、視聴率が高い番組で流すためには、安全側の配慮が欠かせないわけである。そのようにして、「社会は汚い」ではなく「綺麗な社会のためには・・・」になるし、「荒んだ子供」ではなく、「荒む子供にならないように・・・」のような表現になる、ということ。
 見方を変えれば、そのような歌詞が売れるということは、それを求める健全な若者が多いから、なのかもしれないし、健全さへの憧れからくるもの、ということになるのだろう。あ、そうか、今の親も先生も、ラップの歌詞のようなことを、言わないのかな。むしろ、それまで聞いたことがない、からなのか。実に、啓蒙活動だったりするのかも知れない。
 しかし、そんなラップの歌詞の内容は、果たして、真に正しくて理想で事実だといえるのだろうか? まあ、人によって、いろいろな捉え方はあるだろうけれど・・・。